この大無量寿経では、如来(ブッダ)の生涯を簡潔にまとめた八相成道から始まり、菩薩とは何かが説かれ、釈尊が弟子に対して、こんな話がある。といって説法するところに続いていく。その説法は、一国の国王であった法蔵菩薩が仏の説法をを聞いて、無常の悟りを得たいという心を起こし、国を捨て王位も捨て去って修行者となり、五劫という長い時を経て清らかな行いを身に修め、四十八の願いを成就して仏となり阿弥陀如来となって浄土を建立したという話し建てになっている。そして日本の浄土教においてはこの四十八願の十八、十九、二十が特に重要視されていて、その思想は法然上人から親鸞聖人へと受け継がれていく流れになっている。なぜこの三つを重要視したのかは法然上人や親鸞聖人が生きた時代背景とその人柄によるものが大きいと思う。平安時代の末期にあり戦乱の時代へと突入していく中で、難解な仏教はなかなか民衆の救いにはならず、苦しみが蔓延るばかりであった混沌の世の中に生きた僧侶が法然上人と親鸞聖人であって、何とか世のため人のためにある仏教にしたいという願いのもとに十八、十九、二十を重要視したのだろう。今の時代にあの二人が生きていたなら浄土三部経をどう解釈しただろうか、というのも興味深いとこではある。このブログでは全体を見渡した上で四十八願を解釈していければと思っている。
【八相成道】
この八相成道では、浄土三部経におけるブッダの生涯が記されている。ブッダを主人公にした短編小説みたいなもので、この話の中でブッダの悟りへの道が描かれている。
第一は降兜率。如来は前世、兜率天において菩薩であり、やがて法を宣布して兜率天を捨てて魂魄を人の胎内に降ろす事になる。第二に入胎。白象に乗って天から降り、ある国の王妃の胎内に下りる。第三に出胎。この第三はよく知られている話で、母の右脇から生まれ七歩歩み「天上天下唯我独尊」と言葉を発し、神々も人々も釈尊を礼拝した。それから何不自由なく暮らし何においても優秀だったブッダであったが、生老病死を観じて無常観を悟る。第四に出家。何もかも捨てて樹の下に座して苦行する事六年、苦行の後、五濁悪世の世の中において成道の時がきた事を魔に知らしめる。第五に降魔。魔は欲望、怒り、恐怖などの眷属を率いて誘惑し攻撃をしかけるが、ブッダは智慧の威力を以て、魔の軍勢を打ち破りことごとく降伏させる。第六に成道。この降魔の後に、甚深微妙な理法を得てブッダは至高の悟りを成就させる。第七に転法輪。ブッダは神々の願いを請けて伝道を開始する。そして最後の入滅。身は消えても甚深微妙な理法は人々の救いとなり、その方は救済を続けていく。
かなりざっくりになるが、こういう話しの展開になる。この話を考察してみると、もうすでに前世で菩薩であったから菩薩の定義から知らないといけない。菩薩というのは空、無相、無願の三昧を得ている者の事で、空は諸行無常と諸法無我を心得ている事。無相は全ての存在、万物に固定の姿は無く無差別、平等であると知る事。無願は偏見や身勝手な行いをしない事。これらの事を極めつくしているのが菩薩である。
第三の出胎での七歩歩く意味は、六道から脱していることを表している。「天上天下唯我独尊」というのは簡潔に表すとつまり、不変の真理である理法こそが最も尊い。という解釈ができる。誕生したのは仏であり如来であって、仏というのは理法を具現化した存在といえるからである。
自灯明法灯明の心を表しているともいえる。「生老病死によって無常を知り」というのは一切皆苦と諸行無常を表している。避けられない苦しみによって、全ての存在は絶えず変化していて願ったようにはならない事を知り、生じたものは滅するという事を知り、出家に至る事になる。五濁悪世の世の中において修行して、仏の理法を知り、智慧を得て、煩悩を打ち滅ぼし、悟りを得て伝道していく。
在るべき仏道の因果を表した話だといえる。そして、まずきっかけとなるのが一切皆苦と諸行無常というのがなんとも現実味があって良い。
【四十八願】
四十八願は全体を通して、この願いが叶わないならば私は悟りません。という法蔵菩薩の願いであり、実現させたものになっており、それと同時に仏教にはこういった功徳がある。という説明にもなっている。
一~五までは仏教に携わる人たちが悟りを得ないならば私は悟りません。という内容になっていて六~九までは宿命通、天眼通、天耳通、他心通という仏教により得られる力について説かれている。これらは仏教的な学習力、洞察力、理解力、読心力の事であり因果の道理を理解し、不滅の真理を理解したなら身に付く力の事であるといえる。十~十七までは浄土の在り方を説いており、全てのものが執著を離れ悟りに至り、そして諸仏の仏法と浄土における神々ならびに人々は永久不滅であって六道に堕ちたりすることは無く、仏の光明には限りが無い事が説かれている。十八~二十までは信仰があり一度でも心に仏を念じたならば浄土に往生する事ができる。ただし五逆の罪を犯した者は除かれるという事が説かれている。ここに関しては浄土宗や浄土真宗が深く掘り下げていて、色々な解釈や論議がなされている。二十一~四十八までは心の安定や智慧や悟りの極致である空の思想や幸せが得られたり、浄土の風景が美しかったりという事が説かれている。その中で、女人に生まれなくてもいいだとか洗濯しなくてもいいといった表現がみられるが、これはその当時のインドの時代背景が色濃く出ていて女性差別があったりだとか衣服の洗濯が重労働だったりだとかそういった時代背景から出た思想であると推測できる。そしてこれらの願いを成就して仏となったのが法蔵菩薩で、仏と成った名が阿弥陀如来である。
【重誓偈】
上記の四十八願を宣布した後、さらに重ねて誓いを重複したものを「重誓偈」という。この重誓偈は私が子供の時、気に入ってたお経だった。阿弥陀経や正信偈ほど長くもないし、短すぎるわけでもない、テンポもいいし気に入っていた。意味は何もわかってなかったけど。
煩悩を離れ清浄の智慧を以て最高の悟りに至り、大いに施し貧苦を救い、三毒の無明を消して衆生の厄災を払い、六道に堕ちる道を塞ぎ、善なる門に至らしめ、仏教を広く伝道し、多くの功徳を積もう。といった事を重ねて説いている。
【求法の菩薩】
菩薩とはどんな存在なのかという事が次の話で釈尊が阿難に対して話をしている。
法蔵菩薩は、不可思議数の兆載永劫の久遠の時において、求法者たる菩薩の無量の徳行を積み、愛欲や怒りや、他を害する心を生じることはなかったのです。求法の菩薩は、色・声・香・味・触・意の六根の欲求に執着せず、忍辱の力を充足して苦を除きます。求法の菩薩は、少欲知足にして、煩悩に染まることも、瞋恚にかられることも、愚痴の暗がりに沈むこともありません。求法の菩薩は、沈思の三昧において常に静かであり、その智慧は無碍にして妨げるものはなく、虚偽諂曲(媚びへつらって偽ること)の心はありません。求法の菩薩は、和顔愛語にして、衆生の心を察し、その願いを満たします。 求法の菩薩は、勇猛精進にして、衆生済度の願いと志に倦むことはありません。求法の菩薩は、濁りのない清白の法を求め、それによって衆生を利益します。求法の菩薩は、仏と法と僧の三宝を恭敬し、師長に仕えます。求法の菩薩は、多くの福徳と智慧の行を厳かに修して、回向して衆生の功徳を成就させます。求法の菩薩は、万物は空であること、万物は無相であって差別はないこと、無願であって恣意的な願望はないことの三つの三昧にあり、万物は生起することも消滅することもなく、真実には空の現れであると見つめています。求法の菩薩は、虚言・二枚舌などの悪言が自分を害し、他を害し、彼我ともに害するゆえに悪言から遠ざかり、善語は自己を利し他を利し、彼我ともに利すゆえに善語を修し習います。求法の菩薩は、国や王位さえも捨てて財物を退け、みずから布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の成就を求めて六波羅蜜を行じ、他の人にも教えて行じさせます。求法の菩薩は、阿僧祇の歴劫(永劫の生死流転)において功徳を積み、それぞれに生まれた境涯において、みずから心の願いによって修します。求法の菩薩は、無量の宝蔵(尊い教えの蔵)を自然に開き、無数の衆生を教化して、無上正真の道に導き、退くことのないようにします。求法の菩薩は、転生して、あるときは長者になり、居士(在家の信徒)になり、婆羅門(司祭)になり、貴族になります。あるときは国王になり、聖なる帝王である転輪聖王にもなります。さらに、あるときは六欲天の魔王や梵天の王にもなります。そして、どんな身に生まれたときでも、菩薩は衣と飲食と臥具と湯薬の四事をもって一切の諸仏にささげ、供養し恭敬するのです。
菩薩というのはつまり六根により生じる欲求を制していて三宝に帰依し六波羅蜜を実践して、空、無相、無願を心得ている僧である。
【風土と国土の呼び名】
上記の願いや誓いを法蔵菩薩が五劫という長い時をかけて成就させ阿弥陀仏となり建立した国土が浄土である。浄土には七宝でできた種々の木々があり清らかで美しく穏やかな音楽が奏でられ、沐浴できる池があり、沐浴すれば心は解放され体は快適になり心の垢は取り除かれる。道場樹という樹が風に吹かれると法音が鳴り、それを聞くものは深く法の確信を得て悟りから退くことはなく苦しみに見舞われることもない。また目にその道場樹の姿を身、耳にその音を聞き、鼻に香りを知り、舌にその味わいを嘗め、身にその光を触れ、心に法を念じれば悟りの境地を得て退くことはなく六根清浄にして患い悩む事はない。そして、この道場樹見る時、音響忍(仏の言葉を受け止めて信じる事)、柔順忍(仏教に対して素直である事)、無生法忍(不生不滅の真理を悟る事)という三つの法忍を得ることができる。あるときは自然な音の中から法の声を聞くことができ、三法印、空、波羅蜜、十力、無畏、不供法、通慧、無所作、不起滅、甘露灌頂など、様々な声を聞く事ができ、心に起こる喜びは無量なものとなる。さらにこの声を聞く者は清浄、離欲、寂静、真実の義に従い道を歩み、そこには地獄、餓鬼、畜生などの苦難を言い表す言葉さえない。このゆえに「極楽国土」という名で呼ばれる。
全ての者が悟りの境地に至っている世界が浄土であるといえる。
【まとめ】
まだ途中だが、長くなりすぎるので一旦まとめ。
浄土真宗本願寺派の仏門に生まれて、たいして勉強もせず、仏教の事は何もわからないまま大人になっていったと自分では思っていたが、こうやってまとめていくと幼い頃から何となく知っている事が多いなと思う。意味は何一つ理解していなかったけど。大人になった今、浄土三部経を読みこんでいくのは感慨深い。
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