【王舎城の悲劇のあらすじ】
観無量寿経は仏教史上最大の悲劇といわれている「王舎城の悲劇」から始まる。子宝に恵まれなかった王舎城の王と王妃が占師に相談したところ、二年後に山中にいる仙人が死んで、その仙人の生まれ変わりとして王子を身籠るだろうと占断される。王はその二年を待つことができず、その仙人を配下に命令して殺し、殺した事で王妃はすぐに身籠ったが、殺された恨みを持った王子はやがて王を殺す者になるだろうと占い師にいわれる。それを聞いた王は生まれた王子を高い塔から落とし殺そうとするが、王子は奇跡的に小指を怪我しただけで命に別状はなかった。王は自分の愚かさを悔いて、それからは殺そうとする事無く、どんな親もできない程、王子を慈しんで育てていった。ある時、世尊の従弟である提婆達多という者が城に訪れ、王子に過去の経緯を話した。それを聞いた王子は激昂し王を監禁して餓死させようとした。しかし、王妃が王を憐み体に蜜を塗ってひっそりと施し続けてた事を知り、母である王妃も投獄してしまう。そこで王妃は自分の罪を棚に上げて、なぜこんな悪しき子が生まれたのか。私も苦しみのない極楽浄土に往生したい。と嘆き釈尊に救いを求めた。それに応え釈尊は王と王妃のもとに二人の使いを送り、王と王妃に説法をした。王は牢獄に監禁され死を前にしていたが、臨終には仏の光明に照らされ深い静かな安らぎの中で死んでいった。やがて、王妃は解放され王子は子をもうけた。王子の子に対する慈しみを見た王妃は、王もまたあなたの事を同じように慈しんでいた。という事を伝えると、王子は自分の罪を知り悔いた。
すごく簡潔にまとめると「王舎城の悲劇」はこんな話になっている。王妃に説法を施した内容そのものが観無量寿経である。そしてさらには、この話に出てくる登場人物達に仏教の救いはあるのか、という問題点もあわせて考察していくものとなる。罪のない仙人を殺し、さらには子を殺そうとした王と王妃。それを唆した占師と提婆達多。親を殺した王子。登場人物みながそれぞれに大罪を犯しており、それに対する仏教的な解釈はどうなるのかというとこも明らかにされている。
浄土教における観行
まず、この観無量寿経における観行の目的は、煩悩に害されて苦しみ迷う者たちを清浄の道に導くためのものであり、極楽浄土を観じることで時に応じて無生法忍を得る事である。そして、その観法は十六項目に分けて説明されている。日想観、水想観、地想観、樹想観、八功徳水想、総観想、華座想、像想、偏観一切色身想、観音想、勢至想、普観想、雑想観、上輩生想、中輩生想、下輩生想で十六項目である。
そして、牢屋の中で王と王妃に対してした説法がこの観行になる。占い師に唆され、仙人を殺し、子を殺そうとした王と王妃。悪友に唆され父である王を殺し、母である王妃を殺そうとした王子。このような罪を犯した人は救われるのであろうか。と、そういった疑問のある話であり、それに対して釈尊は「王や王妃や王子のような、なかなか自分の意志を持てず、人に流され罪を犯してしまうような凡夫であろうとも、南無阿弥陀仏と唱えれば罪は滅ぼされ、臨終の時には極楽浄土に往生できる」という事をこの観行の説法を交えて解き明かされている。
これらの観行は極楽浄土を観ることを基軸にして展開されていく。それらはインドの当時の時代背景が色濃くでているから、このブログでは要点だけを掻い摘んでまとめていこうと思う。
日想観は初観といわれ、西に沈む夕日に意識を集中し、太陽は東から昇り西に沈むという不変の真理を意識して心を一つに定める観法。水想観は苦、空、無常、無我を思想して万物は縁起により成り立っており常に変化しているという教えを想い、自我へのこだわりを捨て煩悩による苦しみを捨てる観法。地想観は浄土を思い描き精神統一して雑念を捨て去り深い心の統一に至る三昧を得る観法。樹想観は樹を通して因果関係である縁起を観るものであり、樹には根、幹、茎、枝、葉、花、果実という縁起が存在していてそれらは無常であり無我であり空であるといえる。樹を通して縁起を観る観法。八功徳水想は苦、空、無常、無我に加え三宝、六波羅蜜を想い、渇きを癒したり心身を清浄にする観法。総観想は三宝を思想することで浄土に生まれる観法。華座想は四十八の本願を成就させた法蔵比丘を想い、その福徳の力、功徳一つ一つを思念する観法。像想、偏観一切色心想、観音想、勢至想、普観想、雑想観の六つは阿弥陀如来をはじめ観音菩薩、勢至菩薩といった仏を見習うための観法といえる。
そして上輩生想、中輩生想、下輩生想は極楽浄土への往生を願う人たちのためのものであり、人それぞれの気質や能力に応じて適切であるように、平生の心得と臨終の様相を九つに分けて説かれたものである。上品上生の人々は三種の心を起こして往生する。一つは至誠心、二つは深心、三つは回向発願心これらの三心をそなえていれば必ず浄土に往生できる。また、次の三種の人々も勝れて往生できる。一つは慈悲の心を持って諸々の戒律を保つ人、二つは大乗経典を読誦する人、三つは三宝と持戒、布施、敬天の六念を念ずる人これらの人々は祝福されて浄土に往生できる。上品中生の人々は因果の理法である縁起を信じ仏教を誹ることなく、仏法の第一義諦である万物は流転し一切は空であると理解し深い三昧に入って仏道を修する人々のこと。上品下生の人々は因果の理法である縁起を信じ仏教を誹ることなく、至高の悟りを求める心である無上道心を起こす人々の事。これら三種の上品の在り方を思念することを上輩生想という。中品上生の人々は戒律を良く受持する。五戒を持し八斎戒を保つ。そして四諦八正道の道をゆく人々のこと。これらの人々は三明六神通を得る事ができる。中品中生の人々は一昼夜でも戒律を受持する人々の事。中品下生の人々はたとえ仏の教えとは縁なく過ごしてきたとしても父母に孝行し世俗の人々に慈悲の心で接した場合、臨終のときに仏縁があり浄土に往生できる人々の事。これら三種の中品の在り方を思念することを中輩生想という。下品上生の人々は、愚かでいろいろな悪に囚われて業を積み重ね種々の悪を為しても悔いず恥じず後悔の念すらもつこともないが、大乗を誹るような事はしない。そのような人々であっても南無阿弥陀仏と手を合わせて唱えれば浄土に往生できる。下品中生の人々は、戒律も守らず愚かでいろいろな悪に囚われて業を積み重ね種々の悪を為しても悔いず恥じず後悔の念すらもつこともないだけでなく、その悪事を自慢し、その悪事で自分を飾りたてる。このような罪深い人々は本来は地獄に堕ちるが、臨終の時に南無阿弥陀仏と手を合わせて唱えれば浄土に往生できる。下品下生の人々は五逆・十悪の不善になじみ地獄、餓鬼、畜生の世界を輪廻する救いようのない愚かな人々であるが、そのような人々であっても仏は見放さず臨終の時に南無阿弥陀仏と手を合わせて唱えれば浄土に往生できる。これら三種の在り方を思念する事が下輩生想という。
【まとめ】
観無量寿経は浄土を観る瞑想法の指南書であり、王舎城の説話から人間社会の愚かさや人間の心の弱さを知って苦、空、無常、無我を基軸に物事の因果関係つまり縁起を浄土を通して観たり、戒律や仏法を学んだりしながら、苦しみや迷いから解放する観行であるといえる。
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