【縁起と十二因縁の関係、概要】
仏教における根本教義となる「縁起」について。
基本的には「此あるが故に彼あり。此生ずるが故に彼生ず。此なきが故に彼なし。此滅するが故に彼滅す。」という言葉通り、原因があって結果が生ずるという因果律である。
縁起の理解が宗派を分けるといっても過言ではない。
どの宗派が正解でどの宗派が間違っているという事でもないが、色々な解釈がなされているのは事実で、釈尊入滅後から今に至るまで、あらゆる角度から研鑽されてきた教義である。
縁起を考察するときに、どの宗派であっても基軸になる縁起の考え方は「十二因縁」である。
この十二因縁は、もっとも古いとされる原子仏典の「スッタニパータ」の中でも釈尊が話しており(少し内容は違うし十二因縁という括りにはなってないけど)、この十二因縁は、なぜ苦悩が生ずるのかという因果律でもあるし、どうすれば苦悩が生じないのかという因果律でもある。
今、世に広められている十二因縁が確立されたのは部派仏教(アビダルマ、約2000年前)の頃だと言われている。
もっとも古いとされる原子仏典「スッタニパータ」が日本に渡来したのが割と最近っていうのも興味深い。
そして「スッタニパータ」は説話みたいな短編集になっててすごく面白い。現時点で読んだことのある原子仏典の中でもお気に入りの一つである。話しが逸れたな。
そして先に記した通りこの「十二因縁」もまた各宗派、経典によって微妙な違いが出てくるが、仏教における因果律の見方の基本となる体系になってると思う。
今後のブログで「スッタニパータ」と「中論」に記載のある十二因縁はやろうと思ってる。
今回は浄土真宗が提唱している十二因縁の紹介としよう。
【十二因縁】
十二因縁の因果の順序は下記の通りである。
・無明→業(行)→識(六識)→名色(六境)→六処(六根)→触→受→愛→取→有→生→苦悩
十二因縁には二通りの見方があり、無明があるが故に業があり業があるが故に識があり識があるが故に名色があり、、、といった「これがあるから」という見方と、無明がないが故に業なく業がないが故に識がなく識がないが故に名色がなく、、、、という「これがないから」という二通りの見方がある。
前者は苦悩をもたらす因果律で「流転門」といい、後者は悟りに至る、つまり涅槃に至る因果律で「還滅門(げんめつもん)」という。「順観」「逆観」とかともいったりする。
この二つの見方を考察しながら悟りや衆生救済の基軸として展開していくのが仏教教義の基本であるといっていいと思う。
というよりも僧侶の立場で見た時の仏教教義かな。
【各項目の意味と因果律】
<無明>
無明とは智慧が無いという事。仏教においての智慧とは、釈尊の教えであり、ありとあらゆる物事の真理であり、仏教における法律であるといえる。それが無い状態を無明という。
<業(行)>
業とは行い、行為の事。行った行為や、その行った行為が後の生活に与える影響力をまとめて業という。形成力とか潜在的形成力の事。
その物事を形作る作用といった意味で、ここにおいては「業」でまとめている。
<識(六識)>
識とは認識作用のこと。認識作用の内訳として六識という見方があり、眼・耳・鼻・舌・身・意識という括りがある。これをもって認識作用としている。
<名色(六境)>
名称とか概念のこと。六識によって把握される認識対象の事で、色・声・香・味・触・法という括りにして六境という。
<六処(六根)>
六つの認識のための場所。知覚機能。六識の拠り所であり、洲となる所。
眼・耳・鼻・舌・身・意根という六種の知覚機能で六根という。
<触>
識・境・根三つの和合のこと。
六つの感官、六つの知覚機能、六つの対象という三つの因果律が接触すること。こうして認識が成立する。
眼で色を認識し、耳で声を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を見、身体で触れ、そして意識が作用している。そして全てに拠り所となる知覚がある。認識が成立するまでの因果律である。
<受>
認識が成立したら苦楽、不苦不楽を受ける。感受する。
<愛>
仏教では愛を「執著」ととらえる。根源的な執著の心。
執著というのは、特定の事物に固執し深く思い込んでしまう衝動。囚われる事。
「渇愛」ともいわれ、根源的な欲望。あたかも喉が渇いて死にそうな者が、泥水であろうと油膜の浮いた水であろうとかまわずに飲もうとするような衝動をいう。
苦楽、不苦不楽が成立したら愛が作動する。
<取>
愛という心が具体的に活動して、自己の物として取り込むよう転じた段階。
妄執ともいい、執著という根源的な欲望に縛られ、妄想がこうじて真理が見えず、根拠や妥当性の無い妄想に囚われる事。
<有>
迷い、混沌の生存。
<生>
苦悩が誕生する。
<苦悩>
苦の現実。人が自分の願ったようにしてくれない、この世が思い通りにならない、といったような執著、妄執からくる憂い。
四苦八苦。
生・老・病・死の四苦と、愛するものと別れる愛別離苦・怨み憎む相手と会う怨憎会苦、求めても得られない求不得苦、心身を持った人間である以上、苦は存在するという*五蘊盛苦。以上をもって四苦八苦としている。
*人間もまた「五蘊」という個性要素に分けられ因果の形をとったりする。
この十二の因果の流れを十二因縁という。
【まとめ】
苦悩が誕生する因果律と悟りに至る因果律の基本となるのが十二因縁である。
簡略化して流転門と還滅門で捉えると以下のようになる。
無明から業が生じ、認識し知覚して苦楽を感受して欲望から執著が生まれ、妄執がこうじて欲を貪ろうとする事で苦悩が誕生する。
智慧があり無明がないから業は生じず、業がないが故に認識も知覚もないから感受する事もなく、苦楽が存在しないが故に欲望もなく執着もなく妄執もないから、苦悩が誕生することはない。
という感じになる。
縁起の中の一つで縁起の体系の基本ともいえる。
十二因縁は苦悩と悟りをみる縁起であり、法の一つである。
「生まれる事は尽きた。清らかな行いはすでに完成した。為すべきことを為し終えた。もはや再び生存を受けることはない。」
これはスッタニパータで覚者となった人が唱える詩句。
これは実際の意味合いとしてはまったく違うものだが、十二因縁にもあてはまる。
十二因縁を理解すれば意味が分かる。
そしてここから甚深微妙な展開が始まる。
なんか今回のブログは学術的な志向になったな。
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