空の概要

仏教には釈尊の教えを明らかにされた高僧と呼ばれる偉人がいます。その中に龍樹菩薩という人がいます。

この人は仏教が世のため人のためであるべきだ。という事と、仏教の真髄である「空」を明確化させた人でした。

仏教というのは釈尊から始まった宗教で、釈尊の教えを中心に入滅後、記憶暗唱による口伝で伝えられていきますが、入滅後100年経った時から、その仏教教団内部で分裂が起き始めます。その時に、釈尊の教えを忠実に守り厳格な姿勢を守る保守派の小乗仏教と、釈尊の教えに寛容で時代に合ったようにしていこうという進歩派の大乗仏教に別れました。

こういった動きにより、もともと格式の高かった仏教が民衆にいきわたり広がっていったのです。

大乗仏教というのは、仏教というのは多くの人の救いであるべきだ。と主張する人たちで、その事を釈尊の教義も交えて確立させた人が、二世紀ごろのインドの人である龍樹菩薩です。

この龍樹という人が確立させた「空」とはどんなものであったのか、今日はそんな話をさせて頂こうと思います。

そもそも「空」というのは、世間で最もよく知られているお経であろう「般若心経」が空の教えを伝えてるものになります。この般若心経というのは般若経典群という数多くある、空の事を記した経典群のなかの一つです。

その中身は、この世界に存在する全てのものは、物質、感覚、表象、意志、認識という五つの構成要素により成り立っており、そして、それらの要素に実体はなく、全ては因果関係による相互依存により成り立っている。何ものも生じる事無く滅する事も無い。端的に言えばこう言った事が記されており、世界をどう理解するのかという、一種の概念が記されています。

そもそも宗教というのは、この世のありとあらゆる事に対して、その宗教独自の因果関係を考えて、人生や世の中をより良い方向へと導く。という思想が基盤となって展開しています。

そして、それぞれにその因果関係を追究した到達点があるわけですが、仏教においては、「空」という概念がそれにあたります。

では、この「空」をどのように理解すればいいのかというと、端的に言えば、それぞれの要素が固定的な実体を有しない。という思想になります。

これを理解するうえで大事な六つの仏の理法があります。

それが「五蘊」と「縁起」と「十二因縁」と「二諦」と「諸行無常」と「諸法無我」といわれる理法です。この六つがわかれば「空」がどういったものなのか全体像が掴めます。

もちろん完璧な理解には程遠いですが、そもそも何なのかというところは解決できるだろうと思います。

「五蘊」というのは先に話した、この世の存在を五つの構成要素に分けたものの事を言います。色蘊である物質的作用、受蘊である感覚的作用、想蘊である表象作用、行蘊である意志作用、識蘊である認識作用の五つです。

あらゆる存在はこの五つでもって説明できるという事です。

「縁起」というのは端的にいえば因果関係という事を言い表すもので、「これがあるからあれがある。これがないからあれがない。」といった事を縁起といいます。

この縁起の理解を包括するのが「空」となります。

「十二因縁」とは仏教における代表的な因果関係で「十二縁起」などと言ったりもします。これは苦悩の因果関係を十二個に分類したものです。

一つ目は無明。智慧に暗い事。二つ目は業。潜在的形成力などといったりしますが、つまり、物事を形どる行いです。三つ目は識。認識作用。目、耳、鼻、舌、身、意識でもって認識をする事。四つ目は名色。その認識の対象となるもの、色、声、香り、味、触感、法という各認識器官により認識される対象の事。五つ目は六処。認識するための知覚機能の事。六つ目が触。識、名色、六処の和合の事で、これら三つがあって初めて認識が成立します。七つ目が受。認識した後に起こる感受作用の事。八つ目が愛。感受したら生じる執著の事。九つ目が取。執著したその対象を自らのものにしようという妄執。十つ目が有。その執著を取り入れようとする妄執の中にあるものが苦悩であるという事。十一目が生。そして苦悩が生れる。十二つ目が老死悲憂苦悩。四苦八苦といったありとあらゆる苦悩へと成る。

これら十二個の、苦悩が生れるまでの因果関係を「十二因縁」といいます。

そして、二諦というのは物事の見方を分別するもので、世間的な真理である俗諦。そして仏教的な真理である真諦という二つの見方になります。

どういう事かというと、世間的な真理となるのが、先に話した「十二因縁」となり、それを俗諦として、仏教における真理を「全ては因果関係の相互依存により成り立っており、それら構成要素の主体となる実体は存在しない。」と理解する事を真諦とする。これが二諦です。

簡潔に言うのであれば、嘘と方便です。人を傷付ける嘘は罪となるが、人を助けるための嘘は罪とはならず方便となる。というような、一つの物事に対して二つの見解を持つことを二諦といいます。

「諸行無常」と「諸法無我」は三法印といって、仏教の旗印ともいえる三つの理法の中の二つです。

諸行無常というのは「あらゆる存在は絶えず変化していてとどまる事が無く、生じたものは滅さなければいけない」という不変の真理で、分かり易い例えでいうと、花は咲いて散って枯れるという法則のもとにあるが、この法則は全ての存在にあてはまるということです。

諸法無我というのは、「あらゆるものに我はない」という事ですが、この我というのは個人を指すだけでなく、その存在を証明する根源的な本質であり主体であり、個物を支配する独立不変の主体の事をいいます。

つまりどういう事かというと、全ての存在は相互依存により成立しているものであるから、存在しているのは関係だけであって我は無い。という事です。

この五蘊、十二因縁、縁起、二諦、諸行無常、諸法無我の六つを組み合わせると空という概念がどんなものか浮かび上がってきます。

つまり、この世の存在全ては、五蘊という構成要素で分けられ、そしてそれらは縁起という因果関係の相互依存により成り立っています。この事は十二因縁を参考にして考えてみてください。

苦悩に限らず、あらゆる事には原因があり結果があるが、それらは世間的な真理であり、仏教的な真理で見た場合には、全ての要素は常に変化してとどまる事が無く、何においても我という概念はないのであるから、原因がないという事もないし、原因があるという事も無いし、結果がないという事もないし、結果があるということも無い。存在しているのは便宜的に言うのであれば、因果関係による相互依存という、その関係性だけがあるという事になります。真理的な立場で見れば、もちろんこれも、有る。という事は無い。となるのですが。

こういった因果関係による幅広いものの見方が空です。

だから何だという話しですが、この生じる事もないし滅することもないという、空を知る事はつまり、物事の両極端を観て、そして、どちらに偏る事も無くなり、空を知る事で、偏見は無くなり、無限の見識を持って、物事に対して節度を持てるようになります。

かの龍樹菩薩は、民衆に馴染む仏教は、釈尊の教えから逸脱しており、異端であるという小乗仏教の批判から、こういった理屈を持って、民衆の仏教を論敵から守りました。相手の論を否定する事で正しさを説き、自らの意見は無いといって相手を攻撃する事もなく平和な物事の解決に導いて、そして、それこそが釈尊の伝えた真の真理であると主張して、民衆のための仏教を守りました。

そして、この空という概念は仏教において智慧の完成と謳われる最も尊い理法とされています。

ここまでは、空の概要になりますが、この空を完全に理解しようとするならば、全ての仏教教義を理解しなければいけなくなります。というのも、否定を以てして、仏教教義内での正しさを説いたものであるから、必然的に他の教義も理解できていなければ否定する事すらできないからです。

究めるとなると大変な難題ではありますが、ただ理解するだけなら、先に話した内容で理解できます。

何事においてもそうですが、生きる事は節度を持つことが個人的にはすごく大事な事であると思っています。極端なものの見方や偏見は、人間関係も自らの心も苛む元となります。

なぜなら偏ったものの見方そのものが執著であるからです。

是非みなさんにもこの、仏教教義の智慧の到達点である空の教義を味わっていただきたいものです。

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