独覚乘、縁覚乘

独覚乘とは仏教徒としての立ち位置を示す言葉である。

今回のブログでは社会的なものを無視した仏教的な肩書きについて記していこうと思う。

  • 愚者・・・五逆の罪を犯してる愚かなる者。
  • 凡夫・・・智慧が無く苦しんでいる者。
  • 衆生・・・在家にて生活してる者。
  • 声聞・・・仏説を聞いたり師をもって悟りに至る者。
  • 独覚・・・師をもたずに悟りに至る者。
  • 菩薩・・・悟っているが世のため人のために涅槃に入らない者。四弘誓願を誓った者。
  • 仏・・・完全に悟りの世界に至っている者。

ざっくりになるがこういう分別になる。

これもまた掘り下げると色々と出てきて、そこから人としての在り方や戒律、法といった教義の展開に繋がっていくが、今回はとりあえずで、また時間ある時に深く掘り下げていこうと思っている。

声聞と独覚は括りとしては同じであって、ただ道が違うというだけである。

独覚というのは独りで桜が散るのを見て「存在するものはみな育ち咲いて散って枯れるという法則に適っている」といった事を自ら悟り、そういった事の連続で悟っていく者の事を指すのが正確な解釈だと思われるが、師をもたずにただ独り三蔵に触れて悟りを目指すものも独覚だと自分では解釈している。

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