浄土三部経解説~大無量寿経~中

三種の人々

五逆の罪を犯す者と仏の理法を誹謗する者を除いた、仏教を信仰する人々はみな極楽浄土に往生できる事を前提に三種の往生の仕方が説かれていく。その三種とは上輩、中輩、下輩である。上輩とは家を捨て欲を捨て沙門となり阿弥陀仏を念じて色々に修行して功徳を積んで浄土に生まれたいと願う人の事。中輩とは十方世界の神々や人々が至心を起こして浄土に生まれたいと願い、たとえ沙門になって大きな功徳を積むことができなくとも一心に悟りを求める心を起こして、戒律を守り善を修して布施の心を持ち一向に阿弥陀仏を念じる人々の事。下輩は十方世界の神々や人々が至心を起こして浄土に生まれたいと願い、たとえ色々な功徳を積むことができなくても一心に悟りを求める心を起こして浄土に生まれたいと願い、たとえ十回の念仏しかできなくても浄土に生まれたいと願う人々の事。

上輩、中輩、下輩は上から順に功徳と智慧が優れているとされている。これは非常に分かり易い教義になっていると思う。そして行いによって優劣が決まる身分制度のようなものが採用されている。生まれを問わず行いを問うという仏教らしい身分制度だと思う。この三種の人々の話には偈が残されておりその偈を「讃重偈」という。諸行無常、諸法無我、空を知り、善を為して功徳を積み、智慧を磨き、四十八の願いを成就させた菩薩が浄土を建立させ、一切衆生を救いたいという本願力から、みなが往生を願えば浄土に至り自然と不退転を得る事ができる。しかし、功徳を積んでいない者にはこの声を聞くことはできず、清浄に戒律を保つ人はこの法を聞くことができる。この法を聞き精進するものは大きな勇気と喜びを持つ。仏の智慧は深く際限なく難しい。この法を聞いたなら精進すべきである。そういった人こそ仏の善き友であり親しい人である。そのような人はどんなことがあろうとも必ず仏道を成就し輪廻に彷徨う衆生を救うであろう。といった事が「讃重偈」では説かれている。

この世の憂い

釈尊が弥勒に対して「なぜ苦しみばかりの俗世を捨てないのか。なぜ努めて仏道の徳を求めないのか。」と言ってこの世の苦しみに関して三毒を以て説いている。三毒は前回ブログでも紹介したが大無量寿経を基に詳細をみていこう。

・貪欲

この世の人々というのは五濁悪世の世の中にいても、その事に気づかず財のある人も無い人も、身分の高い人も低い人も、富める人も貧しい人も、男も女も、みな一様に金銭と財の事で憂い苦しんでいて、思い悩むことはみな同じである。過去の行いや未来の事をむやみに案じて不安を募らせている。自分の欲心に使い走らされて安らぐ時が無く、財産、衣食、家財などあればあったで憂い無ければ無いで憂い、常に失いはしないかと疑心暗鬼に囚われ、もっと手に入れたいと憂いている。悩みに悩みを重ね、溜息に溜息を重ねて憂い恐れて苦しんでいる。けれども、財産も衣食も家財も思いがけない災害で流されたり焼かれたり、あるいは盗まれたり債権者に徴収されたりする。どんなものであっても摩耗し消耗し消滅するのであるから、それに囚われていては憂いと恐れおののきから解放されることはない。世の人々は憤りを心に抱き、心は柔軟さを欠いて堅く、意識も固く、苦悩を捨て去る事はない。貴人でも富豪でも命が終えれば何もついてくることはなく全て失われ、誰もついてくることはない。万事に苦しみ恐れ動揺して色々な苦悩をもち痛みと共に暮らしている。貧しく身分の低い者はたまたま何か一つ手に入っても何か一つ失い、全てを手に入れたいと欲している。何を求めようとしても思い通りに得る事はできず、思案しても益はなく、心身共に疲れて安らぎなく、憂いと思惑が絡み合って苦悩がましていき、そうして寿命を終え、身は死して一人で遠くへいくのみである。

・瞋恚

時に争って瞋恚の心を起こすことがある。小さな怨みの心で憎悪しても、それが悪業となり後世には激烈で大きな怨恨となる。なぜなら輪廻の苦界の世間では互いに傷付け合い害しあうからである。瞋恚の心はその場ですぐに暴力を振るって相手を打ち負かすことはなくても、毒を含み怒りを蓄えて、憤りを精神に結び、自然に深く心に刻まれて、離れる事ができなくなる。そしていつか未来に恨みの相手に出会い報復し合うことになる。

・愚痴

この世の人々は愚かにも欲望に惑わされ仏道の徳に目覚める事も無く、瞋恚に迷い没して、財や金銭の貪欲に追い立てられている。そのため解脱に至る道を見失い、六道輪廻の悪趣の苦に還り、果てしなく苦悩の生死を繰り返しており、憐れで傷むべき事である。みずからの邪見ゆえに自分が正しいと思い、仏道の徳を教えても心を開かず昔の事ばかりを偲んで情欲を離れられずにいる。知恵の明かりが届かない無明の暗がりに閉じこもって、心は愚かさと猜疑に覆われている。そのために人々は思索しよくよく考える事ができない。そうしてるうちに彷徨い巡って臨終に至る。世間は猥雑に濁り乱れていて、人々は愛欲を貪っている。迷っている人は多く目覚めている人はわずかである。

三毒がこのように説かれている。そしてこれらは因果の道理である縁起を信じず、全ては移り変わっていきやがては消滅するという諸行無常を信じず、理解できないからであるとしている。因果応報の道理を理解できない人間は確かに多い。悪い事をしたから悪い報いが返ってきているのにも関わらず、その報いを嘆き被害者振り何とか逃れようとする。いつの世であっても世界のどこであってもそんな人間は存在し続けている。これらの事が世間の事であると語った後に釈尊は弥勒に対して、この事をよく知って、よく考え、いろいろな悪を離れ善を選んで、努め精進すべきである。至心に極楽浄土に生まれたいと願う人は、心が明るく智慧の光に照らされて優れた功徳を得る事ができる。と伝えている。

五悪・五痛・五焼

この世の苦しみである三毒があり、この世の人々は五悪の中にある。五悪とは前回ブログでも紹介したもので五戒に背く行為である。不殺生、不飲酒、不邪淫、不偸盗、不妄語に背く行為を五悪とし、その五悪を犯せば色々な苦しみが生じる事になる。多くの苦痛が五悪の報いとして生じる事を五痛という。五悪の報いは来世にまで及ぶもので地獄の猛火に焼かれるような苦しみに繋がる。それを五焼という。では何が五悪なのか、どんな五痛がありどんな五焼があるのか、いかにすれば五悪を消し去って五善を為すことができるのか。五善を為せば福徳、解脱、長寿、涅槃の道を得る事ができるようになる。そういった事を釈尊は弥勒に対して続けて説いていく。

・第一の悪 殺生

天の神々も世の人々も地を這う虫どもまで皆、心に悪を為そうという欲求を持っている。強い者は弱い者を屈服させ、次々に殺し合って、互いに食いあっている。これらの衆生は悪逆無道であるために後に罪の報いを受け、おのずから地獄、餓鬼、畜生、修羅の悪道に堕ちていく。このような衆生は常に敵と一緒にあり、互いに報復し合い、終わる事はない。悪行が尽きなければ敵と離れる事はできずに、いつまでも生死を繰り返して苦界から出る事はない。天地の間に自然にこの理がある。このように敵と出会って殺生を為す悪の人は、鬼の帳簿に記され、日月も照らし見、天の神も記載する。それゆえ、おのずから三途の無量の苦悩があることになる。苦しみの世界で世々に生死を累ねて、いつまでも生死をくりかえして苦界から出る時は来ず、解脱を得がたいのであるから、その痛みは言葉に表せない。五悪の中の一つの大悪であり、五痛の一つであり、五焼の一つである。その苦しみはたとえば大火に身を焼かれるがごとくである。

・第二の悪 偸盗

世間の人々は一切の道理と義をなくし、法律にすら背いている。贅沢と淫らをにまかせて、それぞれ欲望のままに快を求め、心にまかせて、互いを欺き合っている。心と口は異なり、言葉に思いはこもっておらず、誠もない。媚びへつらい忠義はなく、言葉巧みに取り入る。賢い人がいれば妬み、善人を誹謗して、無実の人を陥れる事さえ平気でやる。それぞれに貪欲、瞋恚、愚痴をいだいて、みな自分の得を厚くしたいと欲し、多く手に入れたいと欲している。欲張りで物惜しみし、財宝を愛し貪る事多く、施すことを知らない。身分が高かろうと低かろうと上下心は同じである。怒って恨んで害し合い、互いに欺き誑かし合って、心は疲れ身は病苦に苛まれる。心は愚かで智慧は乏しく、善行の人を見ても妬み嫉み誹るだけで見習おうとはせず、ただ悪に心をまかせて、みだりに非行をなす。いつも盗み心を抱いて、人の財物をねらい、それを手に入れてもすぐに使い果たして、また求める。他の人に悪心をむけて、自分では働かず、窃盗してわずかに得れば、ますます欲にかられている。邪心をもって不正であり、それを人に知られることを恐れている。ついには露見して悔いる事になる。このような悪の人は、鬼の帳簿に記され、日月も照らし見、天の神も記載する。それゆえ、おのずから三途の無量の苦悩があることになる。苦しみの世界で世々に生死を累ねて、いつまでも生死をくりかえして苦界から出る時は来ず、解脱を得がたいのであるから、その痛みは言葉に表せない。このような事が五悪の中の一つの大悪であり、五痛の一つであり、五焼の一つである。その苦しみはたとえば大火に身を焼かれるがごとくである。

第三の悪 邪淫

世間の人々は天地の間に寄生して生きている。世間には不善の人がいて、常に邪悪な心をいだいている。邪淫のために煩いが心の中に満ち、愛欲がふつふつと沸き起こり居ても立ってもいられなくなり、欲の心を惜しんでただいたずらに異性を得たいと望み、欲望の目で異性を見て、ほしいままに卑猥な行いをしている。そのような人間は自分の妻や夫を嫌い憎んで、密かに他の異性の家に出入りし家財を浪費して非法な行いをする。徒党を組んで戦を起こし、殺し合い、奪い、殺戮して強奪している。欲望のままに行動し、心に快のみを求め、身の楽しみを極めようとしている。親族、友人、知人においても上下をわきまえず傷付けて苦しめている。このような悪の人は、鬼の帳簿に記され、日月も照らし見、天の神も記載する。それゆえ、おのずから三途の無量の苦悩があることになる。苦しみの世界で世々に生死を累ねて、いつまでも生死をくりかえして苦界から出る時は来ず、解脱を得がたいのであるから、その痛みは言葉に表せない。このような事が五悪の中の一つの大悪であり、五痛の一つであり、五焼の一つである。その苦しみはたとえば大火に身を焼かれるがごとくである。

第四の悪 妄語

世間の人々は善を為そうとはせず互いにけしかけ合って多くの悪を為している。二枚舌、悪口、妄言、綺語、讒言によって人を傷付け、仲違いさせて争わせたりする。善人を憎んで嫉妬し、賢明な人を破滅させて喜ぶ。そのような人間は父母に孝行する事も無く、目上の人を軽んじ、朋友に信なく、誠実さもない。自惚れて自分が正しいと言い、横暴に威張って人を侮り、自分を知らない。悪を為して恥じる事なく、自分の強さを過信して人を軽蔑する。驕り高ぶって恐れを知らず、いつも慢心を抱いている。このような悪の人は、鬼の帳簿に記され、日月も照らし見、天の神も記載する。それゆえ、おのずから三途の無量の苦悩があることになる。苦しみの世界で世々に生死を累ねて、いつまでも生死をくりかえして苦界から出る時は来ず、解脱を得がたいのであるから、その痛みは言葉に表せない。このような事が五悪の中の一つの大悪であり、五痛の一つであり、五焼の一つである。その苦しみはたとえば大火に身を焼かれるがごとくである。

第五の悪 飲酒

世間の人々は落ち着きなく怠惰で、善を為して身を修めない。仕事にも身を入れないため、一族を飢えと寒さにさらして苦しめる。それを家族が諫めれば瞋恚の心にまかせて怒る。家族の言葉に感謝することなく、かえって敵対するかの如く反逆する。家族にとってはいない方がましなほどで、取るも与えるも節度がなく、みんなを苦しめて嫌われる。恩に背き義から外れて感謝の心を持つ事もない。このような人間は貧窮、欠乏しあるいは利を独り占めして他の人から奪う事を躊躇わない。たまたま財を手に入れればもっぱら口腹を満たすことに費やし、酒に耽り、美食を嗜好して、飲食に節度がない。このような人間は自分の愚かさを知らず他の人と衝突する。人の情を知らず押さえつけて支配したいと望み、善人を見ては嫉妬して憎み、義なく礼なくして自身を顧みる事もない。自惚れて自己を主張するばかりで諫める事も出来ない。家族の生活の貯えさえ疎かにし、父母の恩もなく、師友の義もない。このような悪の人は、鬼の帳簿に記され、日月も照らし見、天の神も記載する。それゆえ、おのずから三途の無量の苦悩があることになる。苦しみの世界で世々に生死を累ねて、いつまでも生死をくりかえして苦界から出る時は来ず、解脱を得がたいのであるから、その痛みは言葉に表せない。このような事が五悪の中の一つの大悪であり、五痛の一つであり、五焼の一つである。その苦しみはたとえば大火に身を焼かれるがごとくである。

五悪がこのように説かれた後に、各項目ごとに「しかし、この悪世において一心に意を制し、身を正しく、行いを正しくして、独り諸々の善を為して衆悪を為さなければ、独り輪廻を解かれて、福徳と解脱と上天と涅槃の道を得られる。これが五善の中の一つ大善である。」として話は締めくくられる。

まとめ

三毒が苦悩で五悪が罪として説かれており、五悪を犯さないことが善として、どんな人であれ五悪を犯さず極楽浄土に生まれる事を願い念仏を唱えれば、浄土に生まれる事ができる。とても分かり易くて実践しやすい教義である事がまとめてみるとわかる。

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