浄土三部経解説~大無量寿経~下

ここまで極楽浄土の成り立ちや阿弥陀仏の願い、悪とは何か善とは何か苦悩とは何かが説かれてきた。そして最後は信心についてまとめられていく。

いろいろな悪ばかりして善を修することがなければ、みなことごとく悪趣(地獄、餓鬼、畜生の三悪道の事)に入る事になる。現世においても病み、死にたくても死ねず、生きたくても生きていけない程の苦しみがある。物欲と色欲に執著して布施をする事も出来ず、愚かな欲望に迫られ、煩悩にきつく束縛されて解かれることはない。たまたま栄華な時があれば心は嬉しがるだけで忍耐が無いので、努めて善を修することなく、やがて威勢は衰え、衰退して、労苦の身となり、苦は激烈なものへとなっていく。業の網は善悪を漏らさず捕らえ、悪を為す者は網に捉えられ悪趣に堕ちていく。人々の営みというのは昔から今に至るまで痛ましく哀しいものである。しかし、この悪世においてこそ、悪に親しむ思いを捨てて、諸仏の戒めを守り、仏道の法を行じて誤ることなく、仏の言葉を聞いてよく考え、心を端し、行いを端し、聖者を尊び、善人を敬い、報恩の思いをもって布施をし、忍耐と精進と禅定と智慧を以て徳を為し善を立てるべきである。そうすれば三趣の憂いと恐怖と苦痛の悪の道を離れる事ができる。そして善を修せればいつの日か解脱、涅槃の道が得られる事になる。と説かれえている。とにかくこの世は濁っていて苦しみばかりが蔓延っている。そんな世の中であっても功徳を積み三宝を大事にすれば功徳があり善となり苦が除かれる。そんな話建てになっているが、大無量寿経の終盤はどちらかというと衆生に対してではなく僧侶に対しての教えになっている。

胎生と化生の者

浄土には胎生の者と化生の者がいるという。その違いは何なのか。まず仏には5種の智慧があるという。仏智(悟りの智慧)不思議智(人の思慮を超えた智慧)不可称智(言葉では言い表せない智慧)大乗広智(あらゆる衆生を救いとる智慧)無等無倫最上勝智(比較するものも無い優れた智慧)の5種である。人々の中には疑惑の心をもって、よく仏教を信じられなくても善を修して功徳を積み浄土に生まれたいと願う人がいる。しかし、そういう人たちはこの仏の五智がわからないため仏教を信じる事ができない。それでも自己の行いによって罪福があることを信じ善を修して功徳を積めば浄土に生まれる事ができるが、その人たちは蓮華のつぼみの中で500年間母の胎内であるかのように眠り、教えを聞くことができない。このような人たちが胎生の者たちである。そして、人々の中であきらかに仏智が至勝なることを信じ、いろいろな善を修して功徳を積み、その信心を以て往生に回向するならば仏の本願力によって、光明も智慧も功徳ももって、かの菩薩のように完全に具えた状態で浄土に生まれる。このような人たちが化生の者である。これによって知るべきは智慧の優れた者が化生の者であるという事である。疑惑があり信心がなければ胎生の者として浄土に生まれる前に500年の眠りにつかなければならない。それについてはこんな例え話がある。

たとえば地を統べる転輪聖王が宮殿に七宝の別室をつくって種々に荘厳し、寝台に帳をめぐらし、天上には多くの繒旛(垂れ旗)を懸けて飾ったとしましょう。ところが、王子たちが王に対して罪を犯したので、王は王子らを捕らえ、その部屋に閉じ込めました。ただ、高貴な王子らであるゆえに、つなぐには金の鎖をもってし、飲食も衣服も寝台も、花や香も伎楽も転輪聖王と同様にして欠乏のないようにしたとします。さて、弥勒よ。あなたはどう思うであろう。この王子たちは、その部屋にいたいと願うであろうか」 「世尊に申し上げます。そのようなことはございません。王子たちはいろいろな方法を探り、威力ある人に助けを求めて、その部屋から抜け出したいと願うことでありましょう

このように胎生の者たちは不便がなくとも苦しみは免れられない。しかし、その胎生の者達であっても、その罪の本質を知り信心を以て自ら深く悔恨すればその願いのもとに往生する事ができる。疑惑を持たず仏を信じる心こそが最も重要であることが説かれている。

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