五戒といわれる仏教の代表的な戒律があります。
これは聞いたことある人も多いと思いますが、不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒という五つです。
そしてこれらに反する事を五悪と言います。五悪という概念は宗派によって違ったりもします。
この事に関して「大無量寿経」にこんな言葉があります。
「五つの善を為せば、福徳や智慧の完成や清らかな生や永遠の安らぎを得る事ができる。しかし、五悪の罪を犯すものには五つの現世の罪報、五つの未来の罪報が相次いで起こってくる。たださまざまな悪を為して善の根本を実行しないばかりに、皆、自然に悪しき所に陥るようになる。この罪を犯す者はあらゆる不幸の病に侵され、死にたいと思っても死ねず、生きたいと思っても生きられず、罪悪の報いがハッキリと現れて、死ねば生前の行いに応じて地獄、餓鬼、畜生に落ちる。そこには無量の苦しみがある。」
浄土教における悪という事がはっきり記されています。
五戒という戒律はあらゆる経典に出てくる戒律で、古くから大事にされてきた仏教における代表的な戒律です。在家の戒律ともいえます。
この事を守れば良い報いがあるが、反すれば悪い報いがあるという因果応報の原理でもってこの事が説明されています。
それぞれを端的に解釈してしまうと、それなら肉を食えないじゃないか、とか、異性との交わりもできないじゃないか、とか、色々と不都合が出てきますが、本来これらの戒律の持つ意味は何なのか?というところをお話しさせて頂きます。
不殺生戒。これは単に生き物を殺してはいけない。という事ではなく。ただ自分の欲望のままに痛快だなと思い楽しんで、殺したいという心を起こして、故意にその命を奪ったり、または他人にそうさせた場合に殺生の罪になる。という事です。人間が生活のため、生きるために必要な殺生や、故意ではなく誤って殺生した場合は殺生の罪とはならない。心に悪い事を思い命を奪ったり奪わせた場合、または傷付けた場合に殺生の罪となります。
例えば、暴力を以て権力の座に付こうとも、暴力を駆使するものは暴力による報いを怖れて安心することができない。そして互いに報復し合って止むことが無くなります。
しかし不殺生戒を保つ者は単独で巡り歩いても恐れはばかるところが無い。この不殺生戒を保つものは、恐れがなくなり安楽を保つことができるようになる。
この事を知って智慧ある人は無暗に殺生してはいけない。という事が不殺生戒です。
二つ目が不偸盗戒。与えられないものをとるというのは他人のものだと知りながら、盗みの心を生じて、財物を元あったところから離して、その財物を自分自身のものとして属させること。またはこれらの事を他人にさせる事。これを盗みの罪と名づけ、そのような事をしないことを不偸盗戒といいます。
他人に属するものには二種類ある。人の手の内にある物と人の手から離れている物である。この物が人の手の内にあれば当然盗ってはならないし、手から離れている物であれば、「これはどこの誰の所有物か?」という事を調べて検討して、誰かの者であったなら盗ってはならない。
盗みの罪を犯す者は、心と口がうらはらであって誠実さのかけらも無く、周りの事情をかえりみず、善人であろうとも欺き、自分の財を増やすことのみを考え欲を貪る。あらかじめ思い計るという事をしないために、周りを巻き込み破滅する。そして、結果が表れて初めて後悔する。
こんな詩句があります。「一切の人々は衣食住によって自ら生きている。それを奪い、あるいはかすめ取るならば、それは命をかすめとり奪うことであると名付ける。」
この事を知って、智慧のある人は盗んではならない。という事が不偸盗戒です。
三つ目が不邪淫戒。父母、兄弟、姉妹、夫、妻、子供、世間の法、国の法に護られている人間を、もしも犯す者がいれば、これを邪淫の罪と名付ける。また暴力、財、誘惑などによって相手が望んでないのに、強いて無理な事をしようとする事も同じである。
愛欲を貪るものは、ただみだらな愛欲を思うばかりで、心は煩いでいっぱいになり、愛欲に乱れていて座っていても立っていても安らかではない。
この事を知って、智慧ある人は淫らに愛欲を貪ってはいけない。これが不邪淫戒。
四つ目が不妄語。嘘偽りを吐くことは、汚れた心をもって他人を誑かそうと欲して、真実を覆い隠して実際とは異なった言葉を吐き、口による禍を生ずる。真実を真実でないと言い。真実でないことを真実だと言う。
ある人は愚かで劣っていて智慧も少ないために、災難にあえば、嘘を付いて苦しみから脱しようともがいて、ことがいずれバレてしまうという事を知らない。そして罪を得て、後に大きな罪の報いがある事も知らない。
または、嘘は罪であることは知っているけども、吝嗇であったり、欲を貪ったり、怒ったり、迷ったりする事で我を忘れて嘘を付く。いずれくる罪の報いをさけるために重ねて嘘をつく。
またある人は、嘘を罪と知り、貪ったり怒ったりしないけれど、しかし、自らの利のために他人に罪のある事を偽って立証して、心の中で実にその通りであると思う。こういう人間は死んでから地獄に堕ちる。
逆に真実の言葉を語る事は多くの利が得られる。真実の言葉を吐くのは善人の特徴である。真実を語る人はその心が真っすぐで苦しみを免れる事が得やすい。
この事を知って智慧ある人は妄語を語ってはならない。という事が不妄語戒。
五つ目が不飲酒。酒を飲んでも、身の益になる事は甚だ少なくて、損する事の方が遥かに多く重い。このゆえに飲んではいけない。
甘い蜜には毒がある。はちみつは甘くておいしいが、摂取しすぎると毒となるという事である。
この事を知って智慧ある人は飲酒をしてはならない。という事が不飲酒戒です。よくいう吞んでも吞まれるなという事です。
これら五つの事を知り、自らを戒める事が仏教の基本的な戒律であると言えます。
戒律と言っても色々な戒律があり、毎日ではなく月の内の決まった日にちだけ戒律を守る八斎戒や、正式な僧侶であると認めるための儀式であり数百の戒律を守らなければならない具足戒など、昔から仏教に限らず、色々な観点から発展してきた、人間の営みに関する決めごとが戒律です。
「戒」というのは個の規則で「律」は集団の規則を表します。
なぜ人間はこんな戒律などを設けなければいけないのか。という事に関して、仏教では、人間というのは根本的に欲にまみれていて煩悩に傾くことを好むから、規則を作らなければたちまちに破滅してしまうからだとしています。自らに目を向け、自らを考えるという立場をとる仏教らしい理由だと思います。
そもそも人間というのは欲深い生き物であり、その先に苦悩があるとは知らずに、または知っていても、煩悩を好むのであるから、日々が戦いとなります。
そんな中で一助を担っている事に服飾があります。
服飾には受動的な知性があります。着ている服を通して服飾は人間を支配する力があります。知性と言ってもコミュニケーションがとれるわけではないし、自ら考える力ももちろんありません。
しかし、人間がその知性を持った服を着る事で、自覚を生み、それを見る他人に影響し、その服を着た人間の知性も相まって、相乗効果を生じて、その人間に働きかけます。というのも、その服を着た時に、服飾が持ち合わせる観念は世間に勝手な判断を為され、当の本人はそれを意識せずにはいられなくなるからです。
そして、その服飾に宿る知性というものが、戒律であると思っています。
いつも仕事で着ている制服などに袖を通すと、気が引き締まるという経験は誰にでもあると思います。
その服を着た人間を見る周りの人間にもその影響は及び、その人間の持つ人間性ではなく、服飾のもつ戒律に沿ってその人間を観察する事になります。
袈裟を着ていれば、その人間を僧侶として認識し、その認識に基づいて、その人間を考察するし、白衣を着ていれば医者として、スーツを着ていれば何かしらの組織に所属する人間としてといった具合です。
自らを戒め集団を律する。という事に関して服飾は大きな役割を果たしています。
実際に戒律を重んじる、ありとあらゆる組織が制服を統一したり、身だしなみに細心の注意を払っているように思います。
戒律というのは、人が苦悩の渦に堕ちもがき苦しむことを未然に防ぐためのものであり、より良い道を選び取るためのものであり、苦悩から救われるためのものでもあります。
裸一貫でも戒律を守り抜くという事が理想ではあるだろうとは思いますが、人間の心は多くの欲望と煩悩を抱えているものです。
そんな人間であるから、人間らしく想像力を駆使して見合った服を着るという、文明を用いて戒律を守る心を固めていくべきだろうと思っています。
最後に偈を一つ。
「自法に愛染するが故に、他人の法を貶す。持戒の行人といえども地獄の苦を脱せず」
自分の法や戒律に執著するから、他所を非難する。故に地獄の苦から逃れられない。という皮肉交じりの偈ですが。気に入っています。
何事においても執著することなく節度を以て取り組む事が大事であるという事です。
戒律を持ったせいで偏見も持った。という事にならず、広い見識を以て世の中を歩きたいものであります。
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