念仏と慈悲

仏教というのは2500年前にインドの釈迦族であったゴータマシッダルータという方が、生きる事、老いる事、病になる事、死ぬ事、という避けては通れない人間の苦悩を問い、その答えを求めて出家した事が始まりといわれています。

馴染みのある釈尊という呼び名は、釈迦族の尊い人という事です。

そのインドの釈尊の教えが日本まで伝わり、約800年前に浄土真宗の宗祖である親鸞聖人まで縁が繋がり、そして、その親鸞聖人の書き記した書物を基に、今に至るまで受け継がれてきた宗派が浄土真宗です。

仏教には八万四千の法門があると言われていますが、その八万四千の教えがあるといわれる仏教の中でも、浄土真宗は、最も慈悲深い教えが記されています。

親鸞聖人の残されたお経に「正信偈」がありまして、その中に「本願名号正定業 至心信楽願為因」という節があります。

これは直訳しますと「南無阿弥陀仏の名号こそ真実の言葉となり、人が正しく生きていく道を定める行いとなる。そしてそれは、阿弥陀如来の≪一切の人々を救いたい≫という願いが縁となっている」。そういう内容になります。

つまり、阿弥陀如来の一切の人々を救いたいという願いが縁となり、その縁が「南無阿弥陀仏」と唱えるという縁に繋がり、また、それが正しい行いへの縁となり、そして「南無阿弥陀仏」と念ずることで阿弥陀如来に救いとられ、臨終の時には苦のない世界。極楽浄土に往生できる縁ともなる。という事です。

端的に言うのであれば「南無阿弥陀仏」と念ずれば、どんな人であっても、あとは阿弥陀如来が救ってくださる。という教えが浄土真宗です。

浄土真宗は、仏教を信じて、ただ念仏を称えればいい。という簡潔で親しみやすい教えになっています。

仏教というと、苦しい修行が必要だとか、複雑な教義を理解しなければいけないとか、そういう印象が世間一般的な印象だと思いますが、親鸞聖人のこの教えは、苦しい修行などの必要はなく、念仏を唱える全ての人が悟りに至り、仏になる事ができる。という教えになります。この簡潔で明瞭な教えは、800年前から、念仏がその教えを紡ぐ架け橋となって、今に至るまで多くの人の救いとなり、亡き人への供養ともなっているわけであります。

この浄土という死後の世界を考え、故人を尊び、念仏を唱えるという行為が、迷いの世界からの救いとなる。という事を釈尊も仰いました。

情報が錯乱する世の中で生きる私たちは何が正しくて、何が正しくないのかがわからなくなってしまう事が多くあるように思います。

時には思いがけず間違ったことをしてしまったり、言ってはいけないことを言ってしまったり、または思っても無いような事が口から出てしまったり、歪んだ物事の見方をしてしまったりと、そんな事が誘発される世の中です。

そんな世の中であるから、我を忘れて怒りや妬みや憎しみを募らせてしまったり、気に入らない事を愚痴ってしまったり、欲望のままに執着して遊び惚けてしまったりと、考えてみれば後悔するようなことをしてしまう事もあります。

しかし、先に申し上げました通り、どんな事があろうとも深く仏教を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば阿弥陀如来が救ってくださる。というのが浄土真宗です。

浄土真宗の根本聖典に浄土三部経といわれる三つのお経があります。その中の「観無量寿経」にこんな話があります。

「王舎城の悲劇」という話で頻婆娑羅王、韋提希王妃、阿闍世王子の三人を巡る話です。

仏教史上最大の悲劇と言われています。

遥か昔、インドにある王舎城というお城にビンバシャラ王とイダイケ王妃がおりました。

この二人は子宝に恵まれなかったために、占師に相談したところ、山の中にいる仙人が二年後に亡くなって、その仙人の生まれ変わりとして子を授かるだろう。と占断されました。

しかし、王はその二年を待つことができず、配下に命令してその仙人を殺めてしまいました。

そうしたことで王妃は二年を待たずに、すぐに身籠りましたが、今度は、殺された恨みを持ったその子供は、やがて王に報復する者になるだろう。と占師に言われました。

それを聞いた王と王妃は、生まれたばかりの王子を、高い塔から落とし亡き者にしようとしますが、王子は奇跡的に小指に怪我をするだけで命に別状はありませんでした。

その事で王は自分の愚かさを悔いて、それからは殺そうとする事も無く、むしろどんな親もできない程、王子を慈しんで育てました。

そして時が経ち、王子も青年になったある時、釈尊の従弟であり王子の悪友でもある提婆達多という者が、その過去の出来事を王子に伝え、ことの真実を聞いた王子は激昂して、王を監禁して餓死させようとしました。

しかし、王妃が王を憐み、溶かしたバターにご飯の粉末を混ぜたものを体に塗り、王が投獄されている牢屋に行き、ひっそりと施し続け、王は何とか生き永らえてました。

その事を知った王子は、その事にも怒り、王妃も牢屋に投獄してしまいました。

その牢屋の中で王と王妃は、仙人を殺したことや、我が子を殺そうとした自分の罪を棚に上げ、釈尊に救いを求めます。

それに応え釈尊は、弟子と共に王と王妃の前に現れ説法をします。

王は食事も運ばれず死を前にしていましたが、臨終の時には仏の光明に照らされ深い静かな安らぎの中で往生していきました。

やがて時は経ち、王妃は解放され王子も子を授かり、その子に愛情を注ぐ王子を見て、王もまたあなたに対して同じように慈しみをもっておりました。と伝えると、王子はその言葉で自分の罪を知り、自らの愚かしさを悔いました。

とこんな話になっています。

そしてこの時に釈尊が王妃に対してした説法が、阿弥陀如来のいる極楽浄土の話であります。

この話が何かと言いますと、占い師に唆され、仙人を殺し、子を殺そうとした王と王妃。

悪友に唆され父である王を殺し、母である王妃を殺そうとした王子。

はたしてこのような罪を犯した人は救われるのであろうか。と、そういった疑問が投げかけられる話であります。

王や王妃や王子のような、なかなか自分の意志を持てず、人に流され罪を犯してしまうような凡夫であろうとも、南無阿弥陀仏と唱えれば罪は滅ぼされ、臨終の時には極楽浄土に往生できると、釈尊は仰いました。

浄土の教えとは、言い換えるならば、慈悲の教えであります。

同じ「観無量寿経」の中にこんな言葉があります。

「仏心とは大慈悲是なり」大慈悲の心、その心こそが仏であるという事です。

生きていれば自分でも思いがけないような事をしてしまったり言ってしまったりという事は、事の大小はあれども、誰にでもあることだと思います。

しかし、そのような事があっても、心から仏教を信じ慈悲の心をもって念仏を唱えるならば、みな救われます。

そういう広い慈悲の心を多くの僧侶が尊び、その一人が親鸞聖人という人で、そして親鸞聖人を開祖とする浄土真宗を親しむ私たちもまた、広い慈悲の心と感謝を念仏という形で尊んでいけたらなと私は思っています。

そして仏教では縁起という考え方が根本にあります。縁起というのは「これがあるからあれがある。これがないからあれがない」といったような因果関係の事を、仏教では縁起という言葉で言い表します。

先の話でも縁という言葉を使いながらお話をさせていただきました。

お寺ではよく「ご縁」という言葉を聞くと思います。

多くの縁に結ばれて、私たちは今があります。

迷いの世の中であろうとも、念仏を縁として、慈悲の心を忘れずに生きていき、そして臨終の時には苦のない浄土に参ろう。これが浄土真宗の教えなんです。

今一度最後に阿弥陀如来に向かいまして、合掌、お念仏させてもらって終わりにしたいと思います。

合掌。南無阿弥陀仏。

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