僧侶の基本概念

【はじめに】

仏教には在家者と出家者について区別がしばしばみられるが、それは根本的にどういう違いがあるのか。出家者である僧侶は在家者である衆生と仏教的にどう区別されるのか。そういったことを今回のブログではまとめていきた。

まずは仏教の言葉の意味を解釈していきたい。

【仏教の語義】

仏教には昔から三通りの解釈がなされていて、説明されてきた。

「仏之教」仏の教え、「仏即教」仏という真実の教え、「成仏教」仏になる教えの三つである。

「仏之教」というのはつまり、釈尊が説いた教えそのものの事である。釈尊が説いた不滅の真理こそ「仏之教」であるといっていい。

「仏即教」といのうは、仏教の長い歴史の中において、不滅の真理を悟ったのは釈尊ただ独りではない。真理を悟ったものはみな仏なのであり、釈尊のみならずそういった悟った人達の教えを学ぶのもまた仏教なのである。「諸仏の教え」と解釈すると分かり易い。

「成仏教」というのは、字のごとくだが仏になるための教えである。どうすれば成仏できるのか悟れるのかを学ぶことが「成仏教」であり、仏教の根幹にあたるもである。

以上。まずは仏教という言葉の意味合いを解釈していったが、釈尊が説いた教えを体系化し解釈していく過程の中で、このように分かれていったのだという事が窺える。

【三宝】

上記の仏教を学んでいき知っていくうえで、三宝に帰依する事が基本となる。この「帰依する」という行為は、あらゆる経典や論書の中に「帰敬序」として表れている事が多く、その事から八万四千あるとされる法門全てにおいていえる事となるが、この「三宝」の場合、僧侶になるという事においての「帰敬序」であるといえる。

三宝というのは宝であり、それらが最も貴重なものであるという事を認識づけるものである。

第一に「仏宝」で仏を宝とすることである。上述の通り仏とは釈尊のみならず悟った者全般を指すのであって、智慧と慈悲に満たされており「自覚覚他、覚行窮満」自ら悟り他を悟らせ悟りが円満しているという事で、その仏の働きそのものが宝であるとされる。

第二に「法宝」で法を宝とすることである。釈尊の説いた教法の事であり、この法こそが仏教を形作るものであり、不滅の真理そのものが宝であるとされる。

第三に「僧宝」で僧を宝とすることである。ここでいう僧というのは世間一般的な解釈の個人としての僧ではなく、仏の教法を聞こう学ぼうとしている和合を指すものであって、個人ではなく団体を意味するものである。これらの人達を僧伽(そうぎゃ)といい、身分や出身など関係なく仏教に携わる人たちが宝であるとされる。

以上の三つが仏教における最も貴重な宝であるとされているのである。

【三学】

ならばその釈尊の説いた不滅の真理、諸仏の説いた教法、僧伽が学ぶ仏教とはなんなのか。

それを戒、定、慧の三学としてまとめている。

まず、戒学とは言動を慎み規則正しい生活を習慣づける事である。仏教における戒律で最も代表的なのは五戒であり、こういった生活規範が精神にまで及ぶもので、この戒の尊守によって、学ぶことの基礎ができあがるのである。

次に、定学とは散乱する心を静め注意集中して瞑想する事である。瞑想や禅、三昧やヨガなど平静なる心を持続する事や散乱する心を調整する事が定学である。心の平静があって初めて物事を正しく判断することができ、偏見なく学ぶことができるようになるのである。

最後に、慧学とは単に智慧を学ぶ事だけでなく、その智慧を磨く事が慧学である。不滅の真理や正しさだけでなく、人間の浅ましさや世の中の汚れといった混沌までを知り、分別を離れて正しく深く学ぶことが慧学であるといえる。

以上、この三学が仏教の学びの姿勢であるといえる。

【まとめ】

ここまで仏教徒としての基本観念をまとめてきたが、こうやってまとめてみると衆生だからどうとか僧侶だからどうとかという事は一切ない。あくまで仏教というのは生まれや身分で決まるのではなく、行いによって仏ともなるし愚者ともなるのである。出家者や在家者という区別はあくまで便宜的なものであって、社会において生計を立てているか、寺院によって生計を立てているかの違いしかない。むしろ寺院であっても今となっては社会に依存しているところがるため、ほとんどの僧侶が在家者であるともいえる。

こういったとこに仏教の平等主義がみえる。

いかなる時であっても「自分は一人の人間であり、周りの人間もまたそうである」という事を忘れずに仏道を歩んでいきたい。

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