【法印】
三法印。もしくは四法印ともいう。
- 諸行無常
- 諸法無我
- 涅槃寂静
- 一切皆苦(四法印)
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静をもって三法印。これに一切皆苦を足せば四法印となる。
三法印が基本になっているとされている。諸行無常に一切皆苦の意味は含まれてるいるし、仏教全体で考慮してもおそらく三法印が基本になってるはず。
私としては一切皆苦ではなく一切皆空をもって法印をとらえてる。
空も諸法無我に含まれるものであると思うけど、あえて強調するために抽出したい。
この法印というものは、いわば仏教の旗印のようなもので、これがあれば仏教だといえる教義である。全てはここに集約されると言ってもいい。
仏教には八万四千の法門があるといわれるが、その全ての法門はこの三法印を持って解釈する事が基本となる。
そしてこれを理解することが悟りである。
【諸行無常】
あらゆるものは常に変化してとどまる事がなく、生じたものは必ず滅する。という生滅の理法を説く法印である。
読んだままの意味だが、よく使われる分かり易い例えでいくと、「花は咲いて散って枯れる。全てはこの法則のもとにある。」といった意味で、この世界の全ての事象や生き物、営み、何もかもは生まれ、刻々と変化していきやがて滅びる。という事である。
この生滅の理法に関しては好きな訓話があってそれを紹介したい。これは「いろは歌」の翻訳歌としても知られている。
色んな翻訳が存在するが、個人的に好きなやつを貼っとく。
(雪山偈)
http://www.joukyouji.com/houwa0604.htm
「諸行は無常にして、これ生滅の理法なり。生と滅とを滅し終わりて寂滅なるを楽と為す」
という詩句を用いた説話であるが、諸行無常とは生滅の理法の事で、生じることを滅する事が涅槃寂静である。と説いている。
童子の真理を追究するためなら命も惜しくはない。という姿勢にのせて生滅の理法を説明した説話だが、後半の詩句で涅槃寂静を説いてるので、一般的にいわれる解釈は何となくしっくりきていない。というのも、仏教徒の立場でみると、後半の詩句を理解するためには「十二因縁」を理解する必要があるからである。詩句を聞けた時に童子はあらゆるところに教義を書き記し羅刹に身を投げたが、はっきりいって真理を教えてもらえたからといって羅刹に身を投げるのは愚かとしかいいようがない。生じたものが滅さなければならないのなら、そして、生じる事も滅することも滅した先に涅槃があるのであれば、人肉や人間の生き血を好む羅刹などは執着の塊であるから、すぐに羅刹に身を投げずに、まずは詩句をもって説法する事が正しかったのではないかと思ってしまう。
だから本来は身を投げて帝釈天が助けた時に、真理のためなら、そのわが身を顧みない姿勢や修行の成果は評価するが、後半の詩句が理解できてないから、これからも修行を続けなさいよ。という解釈の方がしっくりくる。と個人的には思っている。これが雪山偈で、とても好きな説話の一つ。
全てはとどまる事はなく実体などはない、生じて存在するのは変化のみであっていずれは滅する。という真理が「諸行無常」である。
【諸法無我】
あらゆるものに我(アートマン)は存在しない。
ここでいう「我」とは一人称のものを指すだけでなく、あらゆるものの本質であったり本体、根源にあって個物を支配する独立不変の主体となるものをいう。
この諸法無我という事は、諸行無常にあったように、生じたものは必ず滅する。あらゆるものは変化してとどまる事がない。のであって、そこには「我」という概念はない。と捉える事であり、この諸法無我の理解が「空」の基本となる。
そして仏教の中でもこの「諸法無我」の解釈を起点として意見が分かれている。
諸行無常が因果の流れを指すものならば、諸法無我というのはその因果の流れの解説にあたるものになると思う。
その因果一つ一つに我(アートマン)はなく、存在するのは相互関係のみである。と捉える事であるといえる。
また「空」について執筆するときに明らかにしていきたい。
【涅槃寂静】
涅槃は寂静なり。涅槃というのは仏教的な最高の境地で、そこは寂静であると、安穏の世界で仏教を知っていく理由や目的となるものである。
この涅槃へ赴くために仏教の各教義、法は存在している。
なので、仏教内には、おおよその意味合いは同じだが、たどる道によって色々な涅槃が存在する。
つまり、諸行無常、諸法無我の二つの教義を軸に置き、あらゆる仏説、法を学び涅槃に向かう事が仏教なのである。
【一切皆苦】
一切の物事には苦しみが含まれている。
人生というのは肉体的にも精神的にも思うようにはいかず、現実世界は望む望まないに関わらず苦しみを含んでいる。という教義である。
この事は諸行無常に含まれる考え方だと思うので、私的には「四法印」よりも「三法印」のほうが好みである。
けど、もっとも分かり易く真理を捉えているのはこの「一切皆苦」だと思う。そして仏教が始まったきっかけとなるのがこの一切皆苦である。有名な話だと「四門出遊」というものがある。
世の中の人々はみな何かと思い悩んでいる。身分が高い人、低い人。貧しい人、裕福な人。老若男女問わずみな金銭の事で頭を抱えてる。金があろうがなかろうが憂い悩むことに変わりはなく、後先の事を色々と心配して、いつも欲に振り回されて落ち着きがない。金銭だけでなく人間関係や能力などこの世の苦悩は実に様々で、多くの人は悩み苦しみ嘆くばかりで痛ましい営みを続けていて、世渡りのためにただただ苦しんでいる。
決して裕福な事が悩みを無くすのでもないという事は、ある程度社会経験を積んでいる人ならわかっていると思う。もちろん全員が全員という訳ではないが。
なんにせよ、生きる事は老いる事、病気になる事、死ぬ事という避けては通れない苦しみがある。そういった事を仏教では真理ととらえている。
【まとめ】
三法印を知る事が仏道のスタート地点であり、仏道そのものであるといっていい。
これは一つ一つを今後のブログで掘り下げていったほうがいいな。今日は紹介程度の感じで。
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