仏教の出発点~初転法輪~

仏教というのは2500年前にインドの釈迦族の王族であったゴータマシッダルータという方が人間の苦悩を問い出家したことが始まりと言われています。

お釈迦様や釈尊といったよく聞く呼び名は、釈迦族の尊い人という事です。

釈尊は29歳で出家し、苦行と禅定という伝統的な修行をおさめ、7年の求道の末に悟りに至ったそうです。

なぜ出家するに至ったのかというのには「四門出遊」という話があります。

釈尊という人は王家の生まれで城の敷地から外に出た事はなく、囲われた中で何不自由ない暮らしを送っていた人でしたが、人生の苦悩というのを深く問う性分の人でした。

そんなある時、初めて郊外に外出するという事で、家臣を引き連れて馬車に乗り城を出ました。

まず北門から出ようとすると、老人に出会いました。釈尊が家臣に「私も老いるのか?」と尋ねると、「殿下、あなたも我々も老いを避けられないのです」と家臣は答えました。

これを知った釈尊は外出を中止し、馬車を城に戻すように家臣に指示しました。

次の外出では東門から、前回と同じように家臣を引き連れて馬車に乗り、城を出ました。すると今度は病人に出会いました。釈尊が家臣に「私も病になるのか?」と尋ねると、「殿下、あなたも我々も病にかかる者です。病を避けられないのです」と家臣は答えました。

これを知った釈尊はまた外出を中止し、馬車を城に戻すよう家臣に指示しました。

次の外出では南門から、また同じように家臣を引き連れて馬車に乗り、城を出ました。すると今度は死人と出会いました。釈尊が家臣に「私も死ぬのか?」と尋ねると、「殿下、あなたも我々も死を免れる事はできません。誰であろうとも死は避けられないのです。死んでしまえば誰にも会う事はできないし、また死んだ人間に会う事もできません。」と家臣は答えました。

これを知った釈尊は三度外出を中止し、馬車を城に戻すよう家臣に指示しました。

そして次の外出では西門から、また同じように家臣を引き連れて馬車に乗り城を出ました。すると今度は出家者と出会いました。釈尊が家臣に「この者はなにか?」と尋ねると「殿下、この者は出家者であります。」と家臣は答えました。

それを聞いた釈尊は出家者に近づき、このように尋ねました。「友よ。あなたは頭も衣服も他の者とは違っている。どういった事か?」

それに対して出家者は答えました「殿下、私は出家者であります。出家者というのは良き法、良き寂静、良き善行、良き孝徳、良き非暴力を実践し、良き命への哀れみがある者です」と答えました。

それを聞いた釈尊は「馬車を内宮に引き返してほしい。それならば私は髪と髭をそり袈裟をまとい、家から出家しようと思う」と家臣に伝えました。

とこんな話になっています。

この話が何かというと、仏教というのは生きる事、老いる事、病になる事、死ぬこという避けては通れない苦悩をどうすればいいのか?という事がきっかけになっているという事です。

この問いの答えを求めて釈尊は出家しました。

「四苦八苦」という言葉をみなさん聞いたことがあると思いますが、あれは仏教の言葉で、四苦というのは先の四門出遊の話しでもあった生老病死の事で、八苦というのは、怨み憎むものと会わなければならない怨憎会苦、愛するもの親しきものと別れて離れなければならない愛別離苦、求めても得られない求不得苦、肉体、精神、想像、意志、判断という人間を構成する要素を持つ以上避けては通れない苦しみがあるという五蘊盛苦の四苦を足して、「四苦八苦」といいます。

そして、釈尊はこのような避けては通れない苦しみに対してどういった答えを出したのか、

釈尊が悟りに至った後、初めて行った説法を「諸転法輪」といい、四諦八正道を説いたといれています。

これは四つの真理と八つの正しい道という事です。

四つの真理というのは、まず苦諦。苦諦というのは先ほど申し上げました通り、生きていく以上、苦しみは避けては通れないという真理です。

そして、集諦。集諦というのは苦しみの原因となるのは煩悩に執着することが原因である。という事です。喉の渇いた者が油膜の張った水であろうとも構わず飲んでしまうような衝動が煩悩と結びつき、執著が生じて、それが苦悩の発端となる。という真理です。

そして、滅諦。滅諦というのは、その煩悩と執著を滅する事で、苦を滅し安楽に至ることができるという真理です。いわゆる悟りの境地であり、涅槃と呼ばれるものになります。

そして最後に道諦。その涅槃に至るためには八つの正しい道があるという真理です。

これらが四つの真理です。生きていくにあたって避けては通れない苦しみがあるという苦諦。その苦しみは煩悩に執著することが原因であるという集諦。それらは煩悩と執著を滅する事が解決となるという滅諦。そのためには八つの正しい道があるという道諦。

まずこの真理を受け止める事が必要であると説きました。

そして八つの正しい道が何かというと、一つ目は正見。正しい見解。物事のあるべき道理を見て、歪んだ物事の見方をしない。二つ目は正思惟。欲望や怒りや妬みといった考えを離れ、正しい因果関係に基づいて物事を考える事。三つ目は正業。正しい行い。むやみに生き物を傷付けたりせず、世のため人のため自分のための行動をする事。四つ目は正語。正しい言葉遣い、嘘や暴言をせず、人も自分も傷付けない真実の言葉を心掛ける事。五つ目は正精進。むやみやたらにやるのではなく、明確に何が必要かを考え努力する事。六つ目は正念。正しい観念。全てのものは移ろい変わっていき、やがて滅びる。といったような仏教に基づく観念を持つこと。七つ目は正定。心を散乱させないように正しく瞑想する事。八つ目は正命。不規則な生活ではなく、規則正しい生活を心掛ける事。

これら八つの正しい道が苦悩を解決に導く道であるという事が説かれています。

人間というのは昔から欲深い生き物で、自制しなければいけないと思いつつもできなかったり、日々精進しなければいけないとわかっていても怠惰に過ごしてしまったり、いちいち人の事を気にする必要はないとわかっていても、事あるごとに愚痴ってしまったり、思うようにいかない事を嘆き苦悩する。といった事が蔓延るのが人間社会です。

そして、どうすれば自分の人生がより良くなるのかと考えた時に、その答えが明確であるのかそうでないのかで大きく変わります。

この釈尊の説いた四諦八正道という教えは、2500年前から今に至るまで、そしてこれからも変わらない正しい真理だと思います。

日々の中で自分は正しい事をできているのだろうかと思った時に、是非この釈尊の説いた教義を参考にして頂ければ幸いです。

そして、釈尊は臨終の時に、嘆く弟子に対して「嘆き悲しむことをやめよ。親しきものは離れ、栄えるものは衰えると汝に語ってきたではないか。世は無常にして、生まれたものは必ず死に至らなければならない。」と言って、最後に「自らを灯明としその灯明を心の拠り所とせよ。法を灯明としその灯明を心の拠り所とせよ」という事を伝えて入滅しました。

これは「自灯明法灯明」という教えです。この教えのもとに釈尊入滅後の現存する仏教が始まり、多様な変化の中で発展していきました。この「自灯明法灯明」というのは、端的に言うのであれば、他人ではなく自分を心の拠り所にして自立せよ。そして仏法を支えにしなさい。という事です。

宗教というのは一口で言うのであれば、物事の因果関係を考え、物事の解決を目指すものです。そして仏教ではその因果関係の事を縁起といいます。

あらゆる物事において、みなさんに良いご縁がある事を願います。そして良い縁というのは自らの正しい見解、考え、行動、言葉、努力、念、心、生活が招くものです。

混沌の世の中ではありますが、この話を聞いている全ての方が悪い方に流されず、良い縁に巡り合えるよう願う次第です。

本日は釈尊が初めてした説法である諸転法輪についてお話しさせて頂きました。

最後に合掌お念仏をさせてもらって終わりにしたいと思います。

合掌。南無阿弥陀仏。

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