スッタニパータ解説【小なる章~其の一~】

この章は何が「宝」となるのか?というところから始まる。良し悪しが色んな例えや説話によって展開されていくが、その前提として何を大切にしていけばいいのかが説かれている。

わが説くところを聞け。から始まって、幸せであれ。で終わる詩が続いてる節で、まず、仏教の信仰の深い人、仏陀の説き示した真理、煩悩を消滅させる理法が宝であることが説かれている。これは前回ブログで記載した「三宝」に通じるものがある。この頃から確立されていたんだなと思うと感慨深い。それから、心の安定、理法や戒律を大事にする集い、仏陀の智慧、が宝であることが色々な表現を以て説かれている。そして、この節の興味深い点は一部体系化が為されている事である。

自身を実在とみなす見解と、疑いと、外面的な戒律・誓いという三つの事柄が少しでも存在するならば、かれが知見を成就するとともに、それらは捨てられてしまう。かれは四つの悪い場所から離れ、また六つの重罪をつくるものとはなりえない。このすぐれた宝が<つどい>のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

自身を実在とみなす見解、疑い、外面的な戒律と誓い、これらは仏教の教義とは相反する思想だが、これを縁に人は知見が生じて、それらを捨てさる事ができるようになるといっているのである。自身を実在とみなすことから「諸法無我」の智慧が生じて、疑いがあるから信心とは何かを知り、外面的な戒律や誓いから内面的な戒律や誓いに繋がっていく事となるのである。まさに真実と方便であるといえる。

四つの悪い場所と六つの重罪とは何なのであろうか。四つの悪い場所とは六道輪廻における、地獄、餓鬼、畜生、修羅の事で、六つの重罪とは親殺し、僧侶殺し、暴力、和合を破る、異教に従う、これらが重罪として説かれている。この辺は時代背景が色濃く出てる気がするが、今でも重罪には変わりない。これらの悪い場所や重罪から離れるためには、まずは知見が無ければならず、その知見はいわば煩悩的な思考や見解から生じて智慧へと変わり、罪咎のない場所へと赴けるという話しになっていて、何事にも浮き沈みがあり、間違いを通して真実が観えてくるという体系になっている。

次の節は「なまぐさ」についての事が、釈尊とカッサパの対話の中で語られている。「なまぐさ」とは仏教用語で、「品の悪い僧」といった意味である。このカッサパというのは、おそらく仏教の六師外道といわれている、プラーナ・カッサパの事だと思われる。とても良い節なのだが話建てとしてどう解釈すればいいかがわからない話建てになっている。

話としては、肉を舌鼓を打って喰らうカッサパに対し釈尊が「お前は肉を舌鼓を打って喰らいながら<私はなまぐさ者を許さない>といっている。どういった了見だ?」という問いに対してカッサパが反論するのだが、内容は良いものに思える。

カッサパの反論は、殺傷、暴力、盗み、欺瞞、不貞、不摂生な生活、虚言、妄執、貪り、不正、裏切り、陰口、傲慢、無慈悲、吝嗇、怒り、驕り、強情、反抗心、嫉妬、妬み、偏見、犯罪、残酷、粗暴、無礼、快楽的殺生など、これらがなまぐさであり肉食がなまぐさなのではない。と説いている。それに対して釈尊が、「信心深い者でなければ清める事はできない。清き人は六つの機官を制して執著を去り、見聞きしたことに汚される事はない。」と説いてこの節は終わるのだが、カッサパが説いていることは間違いにはみえない。屁理屈を以て自分の行いを正当化しているカッサパに対しての言葉なのか、それともカッサパが説いているようにみえるこの文章全てが実は釈尊の言葉なのかもしれないが、はっきりしない。肉食をしないという文化は時代背景が大きく影響するので、この文章の解釈はその辺を突き詰めないと分かり得ないのだろうなと思っている。

次の節では、どういう人を友と呼ぶのか、また、どういう人を友ではないと知るのかについて説かれている。これまた好きな詩があるので貼っておく。

恥じる事を忘れ、また嫌って「我は汝の友である」と言いながら、しかも為しえる仕事を引き受けない人。かれを「この人は友に非ず」と知るべきである。諸々の友人に対して実行が伴わないのに、言葉だけ気に入ることをいう人は「言うだけで実行しない人」であると、賢者たちは知りぬいている。常に注意して友誼の破れる事を懸念して都合のいい事だけを言い、ただ友の欠点だけをみる人は、友ではない。子が母の胸を頼るように、その人に頼っても、他人のためにその間を裂かれる事のない人こそが友である。

とても良い教訓だと思う。付き合う人間は考えなければいけないが、何が正しいのかわからなければ考える事すらできない。

次の節では「幸せとは何か」が題材になっている。今なおよく議論されている事だがこのスッタニパータにおいてはどう定義されているのだろうか。

愚者とは関わらず賢者に親しみ、功徳を積み誓願を持ち、学識と技術を身に付け謙虚さを学び、人も自分も傷付けない言葉を使い、家族を大切にして仕事に秩序を持って混乱しない。布施の心と理法を大事にし、非難を受ける行為を避け、尊敬と謙遜と感謝と忍耐を忘れず戒律を守り、清らかな行いと聖なる真理を嗜み、心が動揺せず、憂いなく、穢れを離れ、安穏である事。それがこよなき幸せであると説かれている。こうやってまとめてみると「六波羅蜜」が思い起こされる気がする。

次の節では、また夜叉が出てくる。夜叉が釈尊に対して貪欲と嫌悪と好き嫌いと戦慄の原因は何か?妄想は何から起こって心を休ませず混乱させるのか?という問いかけに対して釈尊が答える流れになっている。その貪欲も嫌悪も好き嫌いも戦慄も妄想も自身から生じて、それらは愛執から起こるものであると答えている。つまり執著から起こるということになる。煩悩が何から生ずるのかを知っていればそれらに苦しめられる事はない。という話しでこの節は終わる。この話の中に例え話で「あたかも子供たちが鳥を投げ捨てるように」という例えが出てくるが、これは子供たちが鳥の足を縛って投げ捨て、飛び続けなければいけない状況を作るという愚かな遊びの事らしい。おそらく。ネットの情報を頼りにした予測的解釈なので本当の正解はなんともいえないが、そういう事だろうと思う。

次の節では辛辣な言葉を以て修行僧達に檄を飛ばす内容になっている。たとえ出家者の身になろうとも欲望のままに生き、人を侮辱するならその修行僧の生活は悪くなる一方だし、理法を説明されても理解できない。無明に誘われて他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることも理解できない。こういう人間は暗黒から暗黒へと赴き、死後には地獄の報いを受ける。糞が年を経ると病原菌を充満させるようなものである。不潔な人間は清める事が難しい。こういう人間を賤しき人間であると知り、修行僧達は一致団結してこの屑を取り除け。互いに思いやりを持ち清らかな人と過ごすことで苦悩を終滅させることができるのである。という内容になっている。まとめていくとわかるが、スッタニパータではとにかく賤しい人間とは関わるな。見抜いて排除しろ。という事が繰り返し説かれている。

次の節ではバラモンについての話になっている。スッタニパータでは度々バラモンが出てくる。このバラモンというのはバラモン教の教徒の事で、バラモン教とは今のヒンドゥー教の前身である。つまり身分制度を教義に含んだ宗教で、この身分制度を否定したのが仏教の始まりであるといっていいと思う。しかし、決してバラモン教そのものが悪い宗教という訳ではなく、堕落したバラモン教徒を悪と為している。このバラモン教については別のブログでまとめようと思う。なにせ、かく言う釈尊もまたバラモンの出身であるとされている。

【まとめ】

とりあえず今回のブログはここまで。やっぱりこうやってまとめていくと色々と見えてくるものがあるな。同じような内容を表現を変えて繰り返し説いているのがわかる。細かく見ればそれぞれ意義は違うものになっているし、同じとまではいえないけど、大筋は同じにみえる。何が大切かを見極めそれを深く掘り下げ味わっていくのが仏教なんだなと思う。そして、悪人を許すな。排除しろ。という思想の色濃さがどんどん出てくるのがわかる。

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