最後の章は、とある宗教教団の祖が苦悩し、弟子たちに釈尊にいるところに行って法について問いてきてくれ。と伝え、その弟子たちが釈尊に対して質問を投げかけ、それに対して返答していくという話し建てになっている。何かと面白い話になっているが要点だけまとめていこうと思う。
世間は無明に覆われている。世間は貪りと怠惰により輝くことはなく、欲心が世間の汚れである。そして苦悩が世間の恐怖である。知恵をもって気をつけていれば煩悩に流されない。識別作用が止滅する事で名称と形態が消滅し、煩悩も消滅する。供儀に専念するものは老衰を恐れ、苦悩から目をそらし、その苦悩から解放されることを希望し、称賛し、熱望して供儀する。このような者はこの世の生存を貪って止まない。世の中にある種々多様な苦悩は執著を縁として生起する。知る事無くして執著をつくる人は愚鈍であり、繰り返し苦しみに近づく。知恵があり、苦しみの生起のもとを観じた人は苦しみの再生の素因となるものをつくってはならない。この世の全ては執著の対象であると知らなければならない。執著には悪魔が付き纏い、死の領域に支配される。世の人々は歓喜に支配され、思惑があれこれ行動させる。
修行者は諸々の欲望に耽らず諸々の欲望には戒律を守り妄執を離れて、心が混濁してはいけない。一切の事物の真相に熟達し、よく気をつけなければいけない。究め明らかにして安らいに帰した時、動揺する事はない。両極端と中間を知り尽くして汚されることが無く妄執を超えている。生と老衰とを乗り越えて何も望むことが無い者となる。どの方面のどんなものであろうとも、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って変化する生存状態の内にとどまらなければ、執著を乗り越える事ができる。怠る事のない人は固執を捨て、生や老衰や憂いや悲しみを捨て、苦しみも捨て去り智者となる。見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りから、内面的にも外面的にも感覚的感受を除き去る事が識別を消滅させる事になり、それが不滅の涅槃の境地である。あらゆる執著と妄執の生存状態を滅し、解脱した者は、その者を計る基準が存在しない。名称と形態から消滅してしまい、存在するものとして数えられることがない。あらゆる事柄がすっかり絶やされた時、論議の道もまた絶やされる。自我に固執する見解を打ち破り、世界を空なりと観ずる事で死を乗り越える。そして、聖者になる者は、哲学的見解や伝承の学問や知識や戒律や誓いによって聖者となっているのではない。一切の煩悩を消滅し尽して、苦悩なく、望むことなく善を行う人が聖者である。
【まとめ】
スッタニパータのまとめが終わった。最後の章は今までの事の振り返りの内容を対談形式にしていた感じだったな。そして大変興味深いのが明確に「空」が出てきた事だった。「空」といえば第一人者としてよく龍樹がが出てくるが、この頃から明確に「空」という概念が存在して、それを抽出して掘り下げたのが龍樹だったのだと理解できる。全体を通して善悪が語られており、僧侶としてどうあるべきかが語られている。またその内、本来の目的であった体系化をこのブログでやっていこうと思う。
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