この章は論書の側面があり、釈尊が詩を以て法を説いていたり議論を交わして法を説いたりしている。この四章と次の五章が現存する仏典の中で最も最古のものとも言われている。最初の節は欲望について説かれている。そして煩悩についての詩が続いていく。
欲望を叶えたいと望み貪欲の生じている人が、欲望を叶えたなら心喜び、叶えられなかったら悩み苦しむ。人間が色々な欲望を貪り求めると、一見無力かのように思えるちっぽけな物事、諸々の煩悩がその者に打ち勝ち、危うい災難がその者を踏みにじり、苦悩が付き従う。それ故によく気を付けて諸々の欲望を回避し執著を乗り越え、その欲望を捨て去る事が彼岸への道となる。という事を説いている。大きな問題は小さな問題から生まれる。これぐらいはまぁいいか、という心が大きな苦悩に発展する事はよくある事だ。しかし、あまりにも細部にこだわり過ぎて厳格になり過ぎると、今度はそれが問題になったりもする。何事においても節度が大事だが、節度を持つためには、まず煩悩が何かを知らなければならない。つまり智慧が必要になる。極端となる両側を知り離れ、中道を理法を以て歩むことが大事であると思う。
次の節では諸行無常を以て煩悩から離れる事を説いている。六道輪廻のうちに留まり、執著し、煩悩に覆われ、迷妄に沈溺している人は解脱から遠く離れている。しかし、欲望を捨て去る事は容易ではない。欲望に基づいて生存の快楽に囚われている人々は解脱し難い、他人が解脱させてくれるわけではないからである。このような者は煩悩に基づいて未来や過去を思慮し、現在や過去の欲望を貪る。そして欲望を貪り続け、熱中し溺れて吝嗇し不正に馴染、迷妄の中を生き続け、死が近づくと「私は死んでからどうなるのだろうか」と苦悩し悲嘆に明け暮れる。何に対しても「我がもの」であると執著して、妄執し動揺している。このような妄執に囚われた下劣な人々は死に直面して悲しむ。このような事を知って人々は学ばなければいけない。煩悩のために不正を行ってはならない。全ての生じたものは絶えず変化しいずれ消滅する。「我がもの」という思いを離れ、諸々の生存に対する執著を無くし、両極端で偏見を含む欲望を制し、智慧を知り、貪ることなく、自責の念に駆られるような悪い行いをせず、見聞する事に汚されてはいけない。欲望に執著せず正しく努め励むことが彼岸の道となる。という事を説いている。何かに依存している人間は事実を事実として受け入れられず、歪んだ見解で理解して、世の中や人間を僻み妬んでいる。こういう人はいつも誰かのせいにして反省することが無く非常に厄介である。こういった人々がなぜこうなのかという答えがこの節では「諸行無常」を知らないからと説いている。
次の節では偏見に囚われた人間について説かれている。悪意を持って他人を誹る人々、他人から言われたことを真実だと思って他人を誹る人々、こういう人々は欲に囚われ偏見を超える事ができない。自らが正しく完全であると勘違いして、知るにまかせて語る。誰に尋ねられたわけでもないのに、他人に向かって自らの正しさや行いを言いふらす人間、自分で自分の事を言いふらす人間は下劣である。歪んだ見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自らのうちにのみ優れた実りがあると思っている人間は偏見によるかりそめの平安に執著している。しかし、諸々の事象に対する固執を知り、自己の見解に対する執著を超える事は容易ではない。理法を知り智慧を持つ人々は、世の中において見聞きしたあらゆる偏見に汚される事が無い。欺瞞と驕慢を捨て去り真理に達していて煩悩の燃え盛る事のない人々は高貴な人である。と説いている。偏見に汚されない事はなかなかに難しい。というのも偏見に陥った時、その考えが偏見であると気づく事すらできないから。気付いてしまえば当たり前な事に思えてしまうが、そもそも偏見を正しい事と認識し真理として捉えてしまうと、偏見を偏見とすら気付けないので、その執著を超えるのが容易ではない事が理解できる。こういう時に自灯明法灯明の心が救いになると思う。
次の節では、つまり偏見を無くした物事の見解が清らかさであると説いている。清らかな物事の見解とはどんなものであろうか。真理を理解して、種々雑多な事をせず、他人に「これが清らかさである」と説いたりもしない。一切の事物について、見たり学んだりした事を制し支配している。計らいをなくすことなく、何事も特に重んずることなく、世間の何ものにも願望を起こすことなく、煩悩を離れ執著する事が無い。欲を貪らず離欲も貪らず、我のものという概念も捨て去っており、これらの事が最上のものであると固執する事もない。と説かれている。つまり諸法無我、空の概念を持つことが清らかさであると解釈できる。両極端な見解を持たない事が清らかな見解だといえる。
次もまたこの話が続き、偏見に固執する者は、自分の見た事学んだこと、道徳、戒律、思索した事のうちにのみ優れた実りをみて、それだけに執著して、それ以外の他のものをつまらぬものとみなし、こだわってなにものかに盲従している。修行者はこだわってはいけない。見た事学んだこと、道徳、戒律、思索したことにこだわってはいけない。世間において偏見を構えてはいけない。等しいという事も無く、優れているという事も無く、劣っているという事も無く、願う事も無く、一つの見解を重んずることなく、何にも導かれる事も無く、なにものにも盲従することなく、妄想分別をなすことなく、いかなる見解もそのまま信じる事がない。それが彼岸の道である。と説いている。こうやってまとめてみると龍樹の「中論」が思い起こされる。こういったとこから空の概念を抽出していったのだろうと窺い知れる。
次の節では「老い」について説かれている。人の命というのは短い。どれだけ健康に生きようとも、いずれは老衰のために死ぬ。人々は「我がものである」と執著したもののために悲しむ。しかし、その「我がものである」と考えるものは、その人の死によって失われる。愛した人でも死んでこの世を去ったならば再び見る事はできない。「何の誰それ」と呼ばれるような人で、かつては人々に見られ聞かれた人でも死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。「我がものである」と執著して貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳みを捨てる事ができない。全ては絶えず変化して消滅していく。この理を知って「我がものである」という観念に屈してはならない。と説かれている。
【まとめ】
今回のブログでは諸行無常の観念が色々な形をもって表現されていたように思う。そしてこの諸行無常の観念は仏教成立前のバラモン教の時代から存在するものであり、これから先も永久不滅の真理として存在し続けるだろうと思う。いずれは人間も倫理を無視してクローン人間を創り永遠の命を手に入れたりする時代がくるのだろうか。よくそんなテーマのSF小説を読むが、実際現状のテクノロジーではそれが再現可能なのかは興味深いとこではある。
今回のテーマであった「偏見」に囚われた人間は日常生活でよく相まみえる。諭そうとした事もあるが、こういう人間は虚栄心が強く、その人の言っていることが正しいと理解してもなお、その事が受け入れられず、事実を事実として受け入れず自分の都合のいいよう歪んだ形で解釈して、さらなる深みにはまり、僻んでいく。
歪んだ見解に陥らず世の中を遍歴していこうと思う。
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