大いなる章の最後の節は「二種の観察」となっており、スッタニパータにおいての苦悩の因果律が体系化されている。「十二因縁」とはまた少し違う体系となっている。
まず、修行僧達が真理を聞き、学ぶのは二種の真理を如実に知るためである。と説かれている。原因と結果というい因果関係を以て苦悩を解説している。
- これは苦しみであり、苦しみの原因である。
- これは苦しみの消滅であり、これは苦しみの消滅に至る道である。
苦しみを知らず、生起する事も消滅する事も消滅に至る道も知らない人々は、心と智慧の解脱が欠落している。このような人々は六道輪廻を終滅させる事ができず、あらゆる苦しみ(四苦八苦)を受ける。苦しみを知り、生起する事も消滅する事も消滅に至る道も知る人々は、心と智慧の解脱の具現化をする。このような人々は六道輪廻を終滅させる事ができ、あらゆる苦しみを受ける事が無い。
- 苦しみが生じるのには原因(素因)に縁って起こる。
- 原因(素因)が残りなく、離れて消滅するならば苦しみが生じる事はない。
世間には種々なる苦しみが存在するが、それらは原因(素因)に縁って起こる。愚者は知らずのうちに苦しみの原因(素因)をつくり、繰り返し苦しみを受けている。知恵を知り、それらの原因(素因)を明らかに観察して、それらの原因(素因)をつくってはならない。
- どんな苦しみが生ずるにしても、全て無明に縁って起こる。
- 無明が残りなく消滅するならば、苦しみの生ずることはない。
無明の状態から、六道輪廻を巡れば行きつく先はまた無明となる。この無明とは大いなる迷いであり、人間界において輪廻し続けている。しかし、智慧の熟達した人々は再び迷いの生存に戻る事はない。
- 苦しみが生ずるのは、潜在的形成力(業)に縁って起こる。
- 潜在的形成力(業)が残りなく消滅するならば、苦しみの生ずることはない。
無明から成る潜在的形成力(業)を知らない人々は、煩悩に束縛され禍が降り注ぐ。この事を知って、諸々の潜在的形成力(業)を消滅させ、諸々の煩悩の想を止めたならば、束縛に打ち勝ち迷いの生存に戻る事が無い。
- 苦しみが生ずるのは、識別作用(識)に縁って起こる。
- 識別作用(識)が残りなく消滅するならば、苦しみの生ずることはない。
無明から成る識別作用を知らない人々は、煩悩を貪り禍が降り注ぐ。この事を知って、諸々の識別作用を静め、煩悩を貪ることなく心を静めた人々は安らぎに帰す。
- 苦しみが生ずるのは、接触(触)に縁って起こる。
- 接触(触)が残りなく消滅するならば、苦しみの生ずることはない。
接触に囚われ、生存の流れに押し流され、邪道を歩む人々は束縛の消滅は遠いかなたにある。しかし、接触を熟知し理解して平安を楽しむ人々は、接触が滅びるが故に煩悩を感じる事が無く、平安に帰している。
- 苦しみが生ずるのは、感受(受)に縁って起こる。
- 感受(受)が残りなく消滅するならば、苦しみの生ずることはない。
苦楽であろうと、非苦非楽であろうと感受されたものには苦が含まれていることを知り、滅び去る虚妄に触れる度に、これは衰滅するものである事を認め、その実物の本性を見極める。諸々の感受が消滅するが故に、快楽を観ずることなく安らぎに赴ける。
- 苦しみが生ずるのは、妄執(愛執)に縁って起こる。
- 妄執(愛執)が残りなく消滅するならば、苦しみの生ずることはない。
妄執を友としている者はこの状態からかの状態へと赴き六道輪廻を超えることができない。妄執を離れて、執著することなく、よく気を付けて世を遍歴すべきである。
- 苦しみが生ずるのは、執著(取)に縁って起こる。
- 執著(取)が残りなく消滅するならば、苦しみの生ずることはない。
愚者は執著に縁って迷いの生存が起こる。生存が起こる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。賢者は執著を離れ消滅する事を熟知しており、再び迷いの生存に戻る事が無い。
- 苦しみが生ずるのは、起動(欲望)の縁から起こる。
- 起動(欲望)が残りなく消滅するならば、苦しみの生ずることはない。
ここでいう「起動」というのは欲望から成る行動の事だと思われる。一切の起動を捨て去り、生存に対する妄執を断ち、心の静まった人々は再び迷いの生存に戻る事が無い。
- 苦しみが生ずるのは、食料(食欲)の縁から起こる。
- 食料(食欲)が残りなく消滅するならば、苦しみの生ずることはない。
諸々の煩悩の汚れの消滅が故に涅槃がある事を知って、省察して食をするにも節度を持つ人々は迷いの生存に戻る事が無い。
- 苦しみが生ずるのは、動揺(高慢、怠惰)の縁から起こる。
- 動揺(高慢、怠惰)が残りなく消滅するならば、苦しみの生ずることはない。
賢者は妄執から成る動揺を捨て去り、諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺、無執著で世を遍歴すべきである。
- 従属するものはたじろぐ。
- 従属する事のない者は、たじろがない。
従属する事のない人は他人に縛られないのでたじろがない。賢者は従属することなく執著することなく世を遍歴すべきである。
- 物質的領域よりも非物質的領域の方が、よりいっそう静まっている。
- 非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている。
物質的領域を熟知し非物質的領域に安住して、それらの消滅において解脱する人々は、死を捨て去っている。
- 神々と悪魔とともなる世界、僧侶、人間を含む諸々の生存者が<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧を以てよく観ずる。
- 神々と悪魔とともなる世界、僧侶、人間を含む諸々の生存者が<これは虚妄である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは真実である>と如実に正しい智慧を以てよく観ずる。
非我なるものを我となし、名称と形態に執著していて「これこそが真理である」と考えても、全ては変化してとどまることなく、願ったようにはならない。全ては虚妄であるから。賢者はそれを真理だと知り我に囚われる事なく安らぎに帰している。
- 神々と悪魔とともなる世界、僧侶、人間を含む諸々の生存者が<これは安楽である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>と如実に正しい智慧を以てよく観ずる。
- 神々と悪魔とともなる世界、僧侶、人間を含む諸々の生存者が<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に正しい智慧を以てよく観ずる。
多くの人々が「安楽である」と考えるものを賢者は「苦しみである」と考える。無知なる人々はここに迷う。理法を知らない愚者には大いなる闇がり、偏見を持つ者は暗黒に堕ちる。たとえ安らぎの近くにあろうとも理法を知らない人は、それが見えない。解し難い真理を観る人々には光明があり、善良な人々には開顕される。
有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。またそれらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良なる人々には開顕される。あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法が何であるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。生存の貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。
つまり一切のものは「空」であると観ずる事が平安となる。有るといわれる、形、色、声、香、味、触れられるもの、考えられるものは認識の対象であり、便宜的な名称であって、実際には実体となる主体は存在せず、全ては心の表象作用であり虚妄であるといえる。それらは好ましく愛すべきで意に適っていて喜びを含む。一般的にはそれらは安楽として知られているが、それらは虚妄であり、執著が伴い苦しみもまた含んでいる。一切は煩悩でありそれらを捨て去った境地が涅槃であり、有る事も無く無い事も無いと知るのが「空」である事が説明されている。
そしてこの節では、二種の観察として16の因縁が説明されており、それらは四法印、二諦、縁起で構成されている。16の因縁は繋げて考える事もできるが、個別でも成立している。十二因縁との違いでいえば、苦しみの生じる詳細な因果を示していて、流転門、環滅門という見方を変える方法で涅槃に至る道を説いているのが十二因縁だが、この16の因縁では愚者と賢者の二つの立場から見た物事の見解を以て苦悩や涅槃に至る因果までを説いていて、一つ一つが原因と結果という側面も持っており、世間的な真理と仏教的な真理が織りなされている。
【まとめ】
これで「大いなる章」は終わりだが、この最後の節は大変興味深い。四法印の解説としてとても優れているとも思うし、二諦の解説にも優れている。かなり簡略化してブログにまとめてみたが、またいずれ掘り下げていきたい。
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