この章は釈尊の出家の話から始まる。有名な「四門出遊」の話ではなく、ある一国の王が道行く釈尊を見掛けて使者を派遣して素性を聞くという話しになっていて、狭苦しく憂いが多く煩わしい在家の生活を捨てて、ひろびろとした野外に出家し努め励むことを楽しみとして生活しているとの話になっている。そして次の節で努めはげむこととはなんなのかを説いている。
この節では悪魔が修行中の釈尊に対して、労りの言葉をもって近づき、「あなたは見るからに体調が悪そうだ。死が近づいているのは明らかだ。生きた方がよい。命あってこそ善行をなすことができるんだ。勤め励むことは大変だしもうやめておけ。」と囁きかけるが、それに対して「私は善行の見返りを求めて努力してるのではない。」と釈尊が反論する流れになっている。
悪魔の囁きとは、第一は欲望であり、第二は嫌悪であり、第三は飢渇であり、第四は妄執であり、第五は怠惰であり、第六は恐怖であり、第七は欺瞞であり、第八は偽善と高慢と軽蔑であると説かれている。悪魔はこれらをもって攻撃をしかけてくる。そして、釈尊は、「降参するわけないだろう。この場合命などどうでもいい。負けて生きながらえるよりは戦って死んだ方がましだ。」とまで言っている。他の経典ではなかなかみられない表現だと思う。智慧をもって悪の囁きを打ち破るというオチでこの節は終わる。
この節で説かれている悪魔、つまり欲望は外の物事ではなく内なる心に住み着く欲望を対象として語られている。これらの欲望は「六大煩悩」に近い表現になっているが、スッタニパータにおける根本煩悩として捉えていいものだと思う。
次の節では正しい言葉とは何か。という事が説かれている。これは四諦八正道の正語に対する答えであるともいえる。一つは最上の善い言葉を使って語り、悪しき言葉を使って語らない事。二つ目は正しい理法のみを語って理に反する事を語らない事。三つ目は自分も人も傷付けない言葉を語る事。四つ目は真実を語って虚妄を語らない事。となっている。
こうやって考えるとよく読み込めば八正道の詳細もスッタニパータの中から見出せそうだ。その辺も意識しながら最後にまとめたい。
次の節でも釈尊は戦う姿勢をみせている。今度の相手は悪魔ではなくバラモンが対象となっていて、バラモンが釈尊に対して生まれを聞いたところ、そのバラモンに対して「生まれを問うな。行いを問え。」と言って説教している。生まれによって賤しい者、高貴な者となるのではなく、行いによって賤しい者ともなるし高貴な者ともなるのである。そういった事を布施の心得を交えて説いている。
そして次の節でも布施の心得の話は続き、どういう人が布施を受けるにふさわしい人なのかを説いている。
執著なく自己を制し無一物で縛めを断ち、自ら慎み、解脱し、苦しみなく、欲求もない人にこそ適当な時に供物を捧げる事。貪欲と嫌悪と迷妄を捨てて煩悩の穢れを滅しつくし、偽りもなく慢心もなく愛執に耽る事もなく妄執も存在しない、自灯明法灯明の心をもち清らかな行いを修してる人にこそ適当な時に供物を捧げよ。と説いている。かなり簡略化しているが、つまりは煩悩を離れ理法に親しみ慈悲深い人にこそ布施の資格はあると説いている。
次の節ではある行者が神から「もし汝の質問に答えられる人がいたならその人のもとで清らかな行いを修めなさい」と言われ、色々な教団の祖に質問を投げかけていくが、どの祖も満足に答えられず、最終的に若かりし釈尊の元に行き質問を投げかけ答えを仰ぐ話になっている。この話もまた諸行無常、諸法無我、四諦八正道、六道輪廻などにまとめられる内容で話が進んでいくのだが、一つ面白いのが「梵網経」を異説として扱っているのである。この「梵網経」というのは日本天台宗の開祖である最澄や浄土宗の開祖の法然なども読破していたと伝えられている。つまり、今の日本仏教に少なからず影響を与えた経本といえる。それを異説として扱っているというのは、スッタニパータはやはり小乗仏教よりの経本なんだという事が窺える。かくいう私もまだ「梵網経」を読んだ事がないので、なんとも確定的な事はいえないが、いずれ読破して明確にしていきたい。
次の節もまた布施や信仰の心得などが行者とのやり取りの中に説かれている。その次の節は「死」をテーマにしたものとなっている。
人間の命というものは痛ましく短くて定まった相もなくどれだけ生きられるかもわからない。生まれたものは死を逃れる道はなく、不幸なく生きようとも老いに達して死ぬ。それが生あるものの定めである。生まれたものは死ななければならない。若い人も壮年の人も愚者も賢者も死に屈服する。全てのものは必ず死に至るのである。死に捉えられこの世を去っていく時、親族や友が悲観に暮れようとも死はその人を連れ去っていく。このように人々は死によって害われるが、賢者は世の成り行きを知って悲しまない。知恵が無く迷妄に囚われた人はいたずらに泣き悲しむ。泣き悲しみ心の安らぎも得られず、何の利も得られないまま、ますます苦しみが生じ体がやつれていき自己を損なっていくのである。しかし、そうしたからとて死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。生あるものは運命づけられた業にしたがって死んでゆく。だから、智慧を持ち真理を観て、人が死んで亡くなったのをみては「かれはもう私の力の及ばぬものとなった」と知って、嘆き悲しみを去れ。悲観と愛執と憂いを超越した時、安らぎに帰する。と説いている。とてもいい詩だと思う。死に対する恐怖や不安や悲しみは永遠に無くなる事はなく、常に生きとし生けるものどもと共にある。拒めないのなら受け入れるしかない。受け入れるとは真理を知ることであり、それが世の成り行きを知る事であるといえる。
次の節では生まれと行いについてバラモンに説いており、人間というのは生まれが異なる事はなく、名称的な区別があるのみである。などといった話が為されている。
次の節はスッタニパータにおける地獄の話が展開され「因果応報」が説かれている。ある修行僧が釈尊に対して別の修行僧の愚痴を言い陰口を叩いていたが、ある時からその修行僧に腫物ができ、次第に大きくなっていき、木瓜程の大きさまで膨らみ破裂して血と膿が迸り死に至った。そして、その修行僧は他の修行僧に敵意を抱き愚痴を言っていたので紅蓮地獄に落ちた。紅蓮地獄とはどんなところなのか。地獄での寿命を数える事は難しく、比喩をもって例えられている。
車両の積み荷の胡麻を百年に一度一粒づつ取り出して、その積み荷が尽きたとしても、一つのアッブダ地獄が尽きるには至らない。二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄に等しい。二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄に等しい。二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄に等しい。二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄に等しい。二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄に等しい。二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄に等しい。二十の白睡蓮地獄は一つの青蓮地獄に等しい。二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄に等しい。二十の白蓮地獄は一つの紅蓮地獄に等しい。
紅蓮地獄の長さはもはや天文学的な長さになってしまう。が、どこぞの智者が計算していて、五千兆一千万年の千二百倍の年数らしい。仏教では数えられない時を示す言葉がいくつかあって「劫」だとか、さらにそれすらも数えられない程の事を「阿僧祇劫」といったりする。そしてここから、どんな人間が地獄に落ちて、地獄はどんな場所なのかが説かれている。その中で仏教ではなかなかお目にかかれないような言葉まで綴られている。
種々なる貪欲に耽る者は言葉で他人を誹る。彼自身は信仰心もなく、ものおしみして、不親切で、ケチで、やたらに陰口を言う。
口穢く、不誠実で、不潔で賤しい者よ。無益に生き物を殺し、邪悪で、悪行を為す者よ。下劣を極め、不吉な、でき損ないよ。この世であまりお喋りするな。お前は地獄に堕ちる者だぞ。
愚者に対してはなかなか辛辣である。どんな人間が地獄に堕ちるのか。誹るべき人を誉め、誉むべき人を誹る者。害心なく清らかで罪汚れのない聖者を憎む愚者。嘘付き、またはやっておいて「私はしませんでした」と虚偽を言いう卑劣な者。善人を非難する者。何者であれ業は滅びる事はなく、それは必ず戻ってきて報いを受ける。その報いとはどんなものなのか。地獄の様相とはどんな様なのか。
鉄の串を突きさされるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。さてまた熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、昔つくった業にふさわしい当然なことである。地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などといって、誰もやさしいことばをかけることなく、温顔をもって向ってくることなく、頼りになってくれない。敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。またそこでは、鉄の網をもって地獄に堕ちた者どもをからめとり、鉄をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろがっている。また次に火炎があまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。火の燃え盛るそれらの釜の中で永いあいだ煮られて、浮き沈みする。また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。かれがその釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも、膿と血とに触れて汚される。また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。また鋭い剣の葉のついた林があり、その中に入ると、手足を切断される。地獄の獄卒どもは鉤を引っかけて舌をとらえ、引っ張りまわし、引っ張りしては叩きつける。また次に超え難いヴェータラニー河に至る。その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。愚かな輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、泣きさけぶかれらを貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄ばむ。罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。
想像力が豊かだ。浄土の話とかもそうだが、経典はとても想像力が豊かだと思う。ネットはおろか情報伝達も乏しかったであろうし、情報が制限された世の中で、智慧を追究することは並外れた想像力なくしては成立しなかったんだろうと思う。
【まとめ】
死に対する考え方は四諦八正道の正念にあたるだろうと思う。
コメント