【はじめに】
其の一の続き。
前回は悪とは何か?罪とは何か?そういった事がテーマになっていたが、この章の終盤はその逆で善とは何か?徳とは何か?がテーマになっている。
この節では悟った人のあるべき姿とは、どうあるべきかを説いている。
それを「無量の慈しみ」を持つ事と表現しており、前回ブログで紹介した賤しい人と対を為す存在であるといえる。
真理に精通しており、直く、正しく、言葉優しく、柔和で、思い上がる事なく、足るを知り、簡素に暮らし、聡明で、高ぶる事なく謙虚で貪る事がない。一切の生きとし生けるものに慈しみの心を持つ。
他人を欺くことなく、軽んじることもなく、悩ますこともなく、怒る事もない。
恨みなく、敵意なく、偏見なく、誤った見解に陥る事なく、真理を観て戒めを保ち、慈しみの心遣いをしっかりと保つ。
苦悩の生存を滅した人であるべきだと説いている。
こういう風にまとめてみるとよく聞く善人の特徴をまとめたものに思えるが、なかなかその通りにできないのが欲望渦巻く人間社会であるとも思う。
そして次の節で、なぜ人々が悩まされるのか?世界とはなんなのか?慈しみの心を実践するとはどういう事なのかが説かれている。
六つのものがある時世界は生起して、人間は六つのものにより悩み、六つのものに執着して、六つのものに親しみ愛している。
とある。
この六つのものとは認識と知覚であり、眼、耳、鼻、舌、身、意であり、色、声、香、味、触、法である。
ここに唯識の発端が垣間見える。
そして、眼、耳、鼻、舌、身の対象が欲望の対象であるとした事を前提に慈しみの心の実践が説かれる。
常に戒めを身に保ち、智慧あり、心を統一して内省し、よく気を付けている人が欲望を離れる。
執着から離れ、束縛やしがらみを超え、歓楽による生存を滅した人は苦悩のうちに沈むことはない。
それが慈しむ心において必要な事であると説かれている。
次の節では、かの有名な「仏の顔も三度まで」という言葉の起源となるであろう説話になっている。あの言葉がこれほど過去の産物だったとは驚きだった。
内容としては、夜叉(悪鬼のようなもの)の住居に釈尊が赴き、夜叉が釈尊に対して「入れ。出ていけ。」という事を三度繰り返した後に、釈尊が「もう出て行かん。話したいことがあるなら話せ」といって、その夜叉の質問に答えて諭すという内容になっている。
この夜叉という存在はスッタニパータに度々出てきて、釈尊に対して疑問を持ち、詩をもって試すという事をする。そして、すぐに心臓を引き裂き両足を捕らえてガンジス川の対岸に向かって投げようとする。それに恐れず釈尊が説法するという件になっている。
この節ではどうやって生きていく事が良いのかという事がまとめられている。
この世では信仰が最上の富であり、誠実、真理、施与、堅固という徳行をもてば憂うことから離れ安楽をもたらす。
そして、真実が最も味わい深いものである。不滅の真理を智慧とし、その智慧は、精励し聡明であり勤勉であれば得る事ができ、苦しみを超え清らかであり、それが最高の生活となる。
適宜に事を為し、忍耐強く努力するものは財を得、誠実を尽くして名声を得、見返りを求めない親切で友を得る。
この世においては誠実、自制、施与、忍耐より優れた行いは無い。
そういった内容が夜叉と釈尊の会話の中で展開される。
そしてこの中には名声、財、友の手に入れ方が示されてるのも面白い。仏教の方便と真実が上手く交じり合った節だと思う。
次の節も面白くて「勝利」という題目になっている。
人間というものは肉と骨と皮でできており、内臓が満ちていて、穴という穴から不浄物が流れ出す。また死んだ時には膨れて青黒くなり墓場に捨てられて、親族さえそれを顧みない。猛禽類や虫ぐらいがこれを啄むものである。
人間の体というものは、不浄で悪臭を放ち、種々の汚物が充満しており、ここかしこから流れ出している。にも関わらず、愚者は体を清らかなものとみなし、自分を偉いと思い、他人を軽蔑する。見る視力が無いとしかいいようがない。
知恵ある修行者は生滅の理法を観じ、内面的にも外面的にも体に対する欲を離れるべきである。そうして涅槃に至るのである。
という話しになっている。
実際の内容はもっと事細かに人間の汚さが表現されていて、愚者に対して辛辣である。きっとこれを書いた人は色欲の強い人だったんだろう。話の流れ的におそらくこれは釈尊本人の言葉ではないと思われる。
要は執著するなって話だが表現豊かで面白い。
そして章の最後を飾るのは聖者の悟りとはどういうものなのか?聖者とはどんな人なのか?という内容になっている。
親しみ慣れることもなく家もなく全ての煩悩と執著を知り尽くし捨て去り、妄執を滅び尽くして解脱した人。
智慧があり聡明で、戒めと誓いをよく守り、心が落ち着いていて瞑想を楽しみ、あらゆるものに勝ち、知り、汚されることなく捨て去った人。
独り歩み怠る事無く、非難と称賛とに心動かさず、諸々の六つの感官をよく静めており、他人に導かれる事無く他人を導く人。
善行を好み、悪行を嫌い、正と不正をつまびらかに考察している人。
年齢を問わず自己を制しており、何人も悩まさず悩まされない人。
他人から与えられたもので生活し、褒める事もなく、また、罵る事もない人。
世間をよく理解して、煩悩から離れ、束縛から解脱しており、最高の真理を観て、依存することなく煩悩の汚れのない人。
善く誓戒を守り、執著なく、常に生命あるものを守る人。
こういった人が聖者といわれる。
まさに不苦不楽の中道といわれる観念を持った人だといえる。
【まとめ】
とりあえず第一章はこれでお終い。
このブログを始めた時はもっと短くまとめようと思っていたが、書き出してそれがいかに難しい事かがわかった。
簡潔であり表現が正確であることが理想だが、なかなかそうもいかんな。
なんにせよとても良い経本だと思っているから自分なりにまとめて、最後に体系化できたらいいなと思っている。
善し悪しを学ぶ上では最高の教科書が「スッタニパータ」だと思っている。
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