スッタニパータ解説【蛇の章~其の一~】

【はじめに】

経典についてのブログ投稿は初めてになる。

その一回目を飾るのは現存する仏典の中で最古とされる「スッタニパータ」でいこうと思う。

最古の仏典であるが、真理はこの頃から変わってないし、人間の悩みの根源もこの頃から変わってないように思う。人間社会というものは少なくとも2500年間、人間の根源的欲望の苦悩を含み続けている。

そしてこの「スッタニパータ」は説話になってて読みやすくて面白い。論書としての側面もある。

中には釈尊本人の言葉も混じっているとされてて、非常に興味深い。

今回はそんな「スッタニパータ」の全体像を見渡せる内容にしていきたい。

思想的な概念を用いた体系化、そして全体の考察を以て締めくくろうと思う。

このブログでは第一章にあたる≪蛇の章≫を考察してく。

全体を通してスッタニパータは善悪の分別とは何かを説いている仏典であると思う。

書物の最初は詩から始まる。煩悩を捨て去る事、妄執からの脱却を詩を以て説いており、その煩悩を妄執でまとめ五蓋という括りにしている。ここでの五蓋(ごがい)とは前のブログで紹介した五蓋とは少し表現が違う。これは現代語訳をベースに経典を読んでいるからに他ならないが、サンスクリット語やパーリ語といった原文で使用されている言語が読めないから仕方ない。

スッタニパータにおける五蓋は愛欲、憎悪、貪り、迷妄、虚妄でまとめられている。意味合いとしては前回ブログの五蓋と同じだが、こっちの方が直接的で分かり易い。

これらを捨て去ることが苦悩を捨て去る事であるとして、「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」という詩をもって表現している。

これが第一章にきているという事は遥か昔から仏教の役割は苦悩を除き去る事だったんだなと窺い知れる。

そして次の節では、釈尊の対論者である者が自らの在り方を神に向かって投げかけている話を、釈尊が仏教的に表現を変えて神に向かって投げかけるという構成になっている。この節は釈尊の柔軟で聡明な人柄がみてとれる。

そして、次の節が私が個人的に最も好きな節になっていて「犀の角」という節になる。

この節は詩をもって自灯明の心掛けを表現している。好きな詩を一つ上げよう。

「盟友・親友に憐みをかけ、心がほだされると、己が利を失う。親しみにはこの恐れのある事を観察して、犀の角のようにただ独り歩め。」

これだけを見ると、ただ独り他人に依存せずに生きろ。となるが、この節には

「もしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気を落ち着かせてその者と共に進め。」

ともある。重要な事は自立した心持ちで、必ずしも独りでなければならないという事ではない。節度が大事であるという事が前提の話となっている。

この節が私に大きな影響を与えたように思う。友達だから許される事というのはあるが、だからといって許すべきでない事も多くある。単純な事だが、まさに心がほだされて見失っていた事だった。そういった分別を自覚させてくれたし、この世の中というものは独りで生きようとすることは非難される事が多い。しかし、この章で独りでいることへの許しともなった。

この節の要点としては、煩悩となるものは何もかも捨て去って何に執著する事もなく不滅の真理を観て強く生きろ。という事になる。

縁覚者、独覚者の在り方を表現しているともいえる。

次の節では説話を以て聖者の習わし、在り方を説き示している。

釈尊が法を説き、それに対して説かれた者が食物を提供しようとするが、釈尊は、法を説いて供物を受け取るのは聖者の習わしではない、法を説く事を利益とするのは聖者の習わしでないから他の人にも与えず、捨てて、別の食物を提供してほしい。という話し建てになっている。

つまり「布施」の心得を説いている節になり、布施の核となる「徳」の概念が記されているわけだが、解釈するならば、見返りを求めず、与えたという意識も無く、善意の心からの奉仕こそが「徳」となるという事である。恩着せがましい者は悪である。恩を着る事は行為は美しいが、時として自らを蝕むことになる。恩を受けたなら報いる事が人の習わしであるとも思うが、これもまた節度が大事な事の一つであると思っている。

そして次の節では修行者については四種類ある事を説いている。

これは在家の人達が僧侶をどう区別すればいいのか?という内容になっていて、清らかな者と清らかでない者を同一視しない心得になっている。

一つ目が、全ての煩悩と執著を捨て去り神と世間とを導く人を<道による勝者>とする。つまり聖者、仏陀の事である。

二つ目は、煩悩の中においてもそこに心動かされる事無く、不滅の真理を最高のものとして世間において法を説き、善悪を分別する人を<道を説く者>とする。つまり菩薩の事であるといえる。

三つ目は、仏説に適った生活をしており、落ち着いて気を付けており、自らも人も傷つけない言葉で法を説く人を<道によって生きる者>とする。つまり、悟りに向かう僧侶であるといえる。

四つ目は、善人ぶり戒律を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で偽りをたくらみ、自制心がなく、おしゃべりで、しかも真面目そうに振る舞う人を<道を汚す者>としている。つまり愚者である。

三つ目までは善ある僧侶の説明をしており、四つ目は悪ある僧侶の説明となる。

スッタニパータの大きな特徴として、悪人に対しては辛辣な言葉が多いように思える。

私個人の見解だが、世間的な仏教の認識の中に「どんな悪人でも許される道はある」という思想が蔓延っているように思う。この考え方は意義深いものであり、仏教的な解釈も確かに存在するが、個人的には疑問的な思想である。

悪人が許される世の中があっていいわけがないと思っているし、善悪の区別をしっかりしないと自らも他人も不幸にする道を歩むことになる。

善悪の分別を見極める見解は自らを守る事ができる。四句分別を離れた見解も考察する事も必要であるが、こういう時に二諦という法が役に立つ。

次の節では十二の詩を用いて破滅に至る道を説いている。

偏見、無知、怠惰、不義理、欺瞞、貪り、高慢、快楽、不貞、嫉妬、財欲、名誉欲を一つ一つ例えを用いて説明していて、破滅に導くことは何かを考察して真理を観よ。という内容になっている。

昔から人間の過ちは変わらんなという感じがする内容で面白い。

次の節は賤しい人とはどういう人なのかを説いている。

瞋恚、嫉妬、妬み、殺生、無慈悲、暴力、圧制、盗み、不義理、欺瞞、強盗、略奪、嘘、不貞、侮辱、唆し、不誠実、高慢、蔑み、軽蔑、迷妄、恥知らず、強欲、などといった事を好む人を賤しい人というのであるとしていて、生まれによって賤しい人となるのではなく行為によって賤しい人にも善人にもなるのであるという事を説いている。

人の行いこそが悪ともなり善ともなる。差別の問題は昨今も無くならない問題の一つだがほとんどが偏見と高慢と無知であるといっていい。

この節ではそういった事を全面的に否定しているものとなっている。

【まとめ】

まだまだ全然途中だが長くなりすぎるので、続きは次回に持ち越して、一旦ここまででまとめてみる。

これは全部を注釈していくのは思ったより大変だし長くなるな。

でもそれだけ意義ある仏典とも思うし頑張ってまとめよう。

こうやって一つづつ振り返ってみると最初は悪について描かれていることがわかる。

悪人とはどんな人なのか?悪い行いとはなんなのか?そういったことから始まっている。

仏典は最初に悪の習わしを説き、その後に善の習わしを説くといった構成になっている事が多い気がする。

次回で第一章をまとめれると思う。

この後には善人とはどんな人なのか?善い行いとはなんなのか?という話しに続いていく。

昔の僧侶たちもこうやって地道に釈尊の言葉を解釈して体系化していってたのかなと思うと感慨深い。

良いブログになりそうだ。

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